<序>
 
当事者によって後に書かれた体験記が、どこまで真実に近いか?
そこには善意に解釈すれば作者の記憶違い、間違いが入り込む可能性がある。しかし何といっても最大の危険は、筆者に忍び寄る自己美化の誘惑であろう。これをどこまで抑えられるかで、その作品の誠実さが決まるといえる。
 
まだ戦後間もない一九五一年五月、月刊誌「文芸春秋」誌上に掲載された「痛恨!ダレス第一電」という題名の手記がある。

一海軍中佐である藤村義一(戦後、義郎と改名)が第二次世界大戦末期に、スイスでアメリカの機関と接触し、日本海軍に対し和平を勧告した秘話の本人による紹介である。
 
発表と同時に、大きな反響を呼び起こした内容であった。しかし詳細においてどれだけ事実に則していたかは、誰も考えが及ばなかった。戦時中のしかも海外の話ゆえ、証明するべき史料は残っていないからだ。
 
軍人政治家の悪行が、戦後次々と暴露され、日本人は一億総懺悔の状態である。人々はこうした美談に餓えていて、無警戒に飛びついた。
それから時代も移り、藤村手記の内容に対する疑義はすでに、幾人かによって提起された。しかしながら決定的となる一次史料に基づく検証が、研究界そして報道界においても欠けていた。
 
こうした中で筆者が、新たな史料として参照し解明に努めたのが、米国公文書館に残る戦時下の日本海軍とその出先である欧州海軍武官室間の交信の解読録である。 Translation Reports of Intercepted Japanese Naval Attache Messages, 1942-1946
 
戦争中を通じて、アメリカは日本の外交、陸軍、海軍それぞれ異なる三種類の暗号通信を傍受し、ほぼ完璧に解読していた。
そのうち海軍暗号文は、これまで日本において研究に使われた形跡はない。今回筆者が調査したのは藤村がスイスから送った、すべてに近い電報であった。
 
さらに日本側では海軍良識派に属し、終戦研究を交戦中から行っていた高木惣吉少将が残した「高木惣吉関係文書」が、藤村のスイスからの勧告電をうけた日本海軍側の状況を記録している。アメリカの解読電と、表裏一体をなすものである。
 
それらを検証しながら、スイスで行われた和平工作の本当の姿と、本人による回想録の微妙な差に迫ると共に、藤村の工作が失敗した本当の原因に迫る。
 
イメージ 1
1943年4月22~24日 在欧海軍武官会議での記念写真(ベルリン海軍武官公邸にて)
最後列中央が藤村中佐。前列左より横井忠雄武官(ドイツ)、野村直邦中将(軍事委員)、阿部勝雄中将(軍事委員)、光延東洋武官(イタリア)
       (
写真提供 阿部信彦さん) 
      


<藤村工作>
      
本編の主題である藤村工作とは、如何なるものであったか?少々長くなるが、本人の書いた文芸春秋の手記から、骨子を紹介する。
 
痛恨ダレス、第一電!
私は一九四0年五月から四六年二月まで、ドイツ、フランス、フィンランド、スイス在勤の日本海軍武官または補佐官として勤務し、主としてベルリン、パリに駐在していた。

一九四五年三月、正式にスイス海軍武官に任命せられて、断末魔の伯林からスイスに移った。
 
第二次大戦中ベルリンにいた日本海軍の首脳部は、戦争勃発の当初から、ひそかに、いつかは必ず来るであろう終戦に備えて日米直接和解の途を準備していたのである。

まずそのために、スイスやスエーデン等中立性の顕著な国において米英側と常に秘密に接触しなければならなかった。そこで特にスイスにおいては反ナチのドイツ人
フリードリッヒ.ハック博士(後述)を通じて私と酒井直衛(在独海軍武官秘書官)の線で努力した。
 
昭和二十年四月二十三日、ちょうど米軍が沖縄攻略に全力を挙げていた当時、私達は慎重審議の結果ついに結論に達し、日本海軍の名をもって在スイスダレス機関を通じワシントン政府に対し、日米直接和平の交渉を開始することにした。
 
私は一九四三年在独時代から、米国が政治経済外交に関するきわめて有力な政治機関を、スイスを中心として巴里、ロンドン、ストックホルム、リスボン等に持っていることをあらかじめ承知していたので、日米直接和平の交渉をするならば、欧州ではスイスに在るダレス機関以外に確実な方法はなかろうと考えていた。
 
即日、スイス日本公使館内海軍事務所にハック博士の来訪を求め、米側との接触に当ってもらうことにした。 
 
一九四一年十二月日本が英米に対して挑戦した時、ハック氏はひそかに書を伯林(ベルリン)の海軍武官に送ってその無謀を強く非難した。彼はもし伯林の武官等が承認するならば、後日必ず巡り来るであろう終戦の日に備えて、自らスイスにおいて英米側との路を開くの衝に当ろうという提案をして来たのであった。これに対し伯林からはもちろんイエスを意味する返事が出された。
 
藤村の依頼を受けたハックは即座に、ダレス氏の秘書フォン.ゲバーニッツ氏に会見を申し込んで懇談した。 五月三日、国務省からダレス氏宛の返事があったとの事でハック氏に連絡して来た。

”日米直接和平の交渉をダレス氏の線で始めてさしつかえない”との事である。 そして東京に対する緊急第一電は発せられた。五月八日の午後のことであった。

「五月三日、ダレス氏より本武官に対し、ハック博士を介し、左の要旨の申し入れがあった。

すみやかに戦争を終息せしむる事は単に日本のためのみならず、世界全体のために望ましい事であり、日本がこれを希望するならば、余(ダレス)はこれをワシントン政府に伝達し、その達成に尽力しよう」
 
五月二十一日か二日に、東京海軍省軍務局長から返事が来た。
「どうも日本の陸海軍を離間しようとする敵側の謀略のように思える節があるから、充分に注意されたい」
東京の返電を見て私たち一同は驚いた。東京には眼のある人はいないのだろうか?
 
いよいよ東京に対し猛烈なる説得工作を開始した。我々は即日、第八電を発電した。「東京では敵の謀略とおっしゃるが、それなら何か具体的の資料があるのか」と。

六月六日の第十六電では、東京がモスコーを通じて和平工作をしている状況を詳しく指摘し、ソ連を対手にした場合の結果について総合判断を送った。
 
六月初め、左の申し入れをせしめた。「私自身が東京に行き、大本営と軍部の首脳部に実情を話し、説得するに限る。何とか日本に行く方法を考えてもらえないだろうか?」

これに対しダレス機関より逆に「東京より大臣か大将級の代表者で、条約にサインをし得る級の人物を呼び寄せられないか。米側は日本からスイスまでの空路輸送を絶対確実に引き受ける」という返答が伝えられた。
 
六月二十二日に、大臣の名において「貴趣旨はよく分った。貴官は所在の公使その他と緊密に提携し善処されたし」との返電があった。ああ、我ら一同は東京に人なきを痛感した。

後で機関の関係者の非公式の話を綜合したところによると、当時は沖縄作戦の最中であり、アメリカとしても早急に血闘を中止せしむべく、即時停戦の協定が成立すれば、先に呈示した三条件も考慮されたろうとの事であった。
 

 
<藤村工作補足>
      
記事が掲載されたのは、今日も一流誌と定評のある文芸春秋(以降文春と略す)である。発表されてから、藤村は一躍マスコミの寵児として、各方面のインタビューに引っ張り出される。何度となくテレビ化され、映画にもなる。

戦後二十年ほど経過し、終戦関係の書物が相次いで出版されるようになると、必ず「スイスでの和平工作」と題して、藤村の活躍に一章が割かれた。
 
すると、文春の手記にはなかった事柄が次々と紹介され、藤村の活躍ぶりが際立っていく。 通称ダレス機関との交渉は、すべて亡命ドイツ人ハックを通じてで、間接的に行われたはずのものが「自分が直接接触した」と変わってくる。

そして四月二十五日、藤村はハックとともにベルン郊外ムーリのレストランでダレス機関のメンバーのジェームス、ブラザーと食事を共にしたという。(日本終戦史)

さらには「五月二日か三日、藤村は当時スイスに滞在したOSS欧州総責任者で、のちのCIA長官アレン・ダレスと直接会見する」とも証言する。
 
OSS(戦略情報局)は今日良く知られたCIAの前身である。ダレスがそのCIAの長官に就任したのは一九五三年のことで、藤村手記の発表直後のことだ。米ソは冷戦時代であった。ダレスの知名度は、日本でも抜群に高くなっていた。藤村はそのダレスと直接、あたかも対等であるかのように交渉したことになっているのである。
 
それからさらに経って、一九七五年に出版された大森実の「戦後秘史」は、戦後三十年経って公開されたアメリカ側の公文書を、いち早く取り入れた意欲的な書物だ。しかし藤村の工作に関しては一貫して礼賛調で、次の ”新事実”がある。
 
日本が降伏する一日前の八月十四日、藤村はハックを連れてベルンの自分のアパートにもどった。すると机上の電話が鳴った。東京からの国際電話であった。

受話器の向うは海軍大臣米内光政の先任副官、今村了之助大佐であった。かれは
「藤村、あの話、今からなんとかならんかね」と切迫して用件を伝えた。あの話とは無論藤村による和平工作の話である。

それを聞いた藤村が「馬鹿ヤロー」と叫ぶと、そばのハックは読んでいた新聞を丸め「百日遅い。みんな亡びるしかないであろう」と言い捨てた。百日前はちょうど、藤村が第一電を東京に送ったと主張する五月八日にあたる。 
 
その他にもスイス入国の際、ナチスに迫害されているユダヤ人娘を、自身の危険も顧みず国境突破させて中立国に逃げさせた、という話も登場する。(終戦前夜秘話参照)

時代を追うごとに、内容は大胆、感動的になる。これら文春以降の新事実は、後に紹介する解読電の中の、藤村が実際に打った電報を見ていけば、総じて事実でない事が分かる。
 
ここでは最初の出版物である文春の内容に限って、分析していくが、特に筆者が問題とするのは以下のポイントである。
 
一.藤村はスイス入りするとき、すでにハックを通じて和平工作に入る事を、ベルリンの海軍武官室から命じられていたのか?
二.戦時中の日米のパイプというのは本当に存在したのか?
三.和平勧告の第一電は本当にドイツが降伏した五月八日か?
四.当時、藤村はダレス機関との交渉内容を正しく本国に伝えたのか?
 
第一部以上 
 
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