<敗色濃厚>

一九四五年一月一日、大使館では恒例の新年会が行われた。敗色濃厚で、病気をした大島大使は努めて元気に振る舞おうとしているようであった。それでもこの日の大使の訓示は元気のないものであった。東部ではソ連軍がベルリンから二百キロまでに迫っていた。

二月に入ると七十五キロの地点まで近づく。邦人のみならず、ベルリン市民もそわそわし出す。一九三九年の九月にヒトラーがポーランドを急襲した時、ベルリンは四百三十三万八千人の人口を誇ったが、この年の始めには統計上では二百八十万七千人に減っていた。しかし外国人、逃亡兵がかなり流入していたので正確な数字はよく分からない。

ベルリンを離れ、テンプリンのギムナジウムの日本語講師であった篠原正瑛はこのころ毎週末、情報収集を兼ねてベルリンに出てきた。そして日本食にありつくべく、日本人会を目指した。

「ある土曜日のことである。昼食のために日本人会の食堂に行ってみると、親しくしている留学生が三、四人、窓際のテーブルに集って、真剣な表情で何事かを論じ合っている。

私も側の椅子にかけて話を聞いてみると、日本の陸軍武官室でも、海軍武官室でも、すでに敗戦気分が濃厚で、武官連中の多くは仕事が手につかず、半ばやけくそになって毎晩のように集まって花札賭博をやっているという。しかも、一晩で何万円という金がかけられているそうだ。」


留学生が憤慨したのも無理はない。篠原がドイツの留学のために持ち出す事の出来た外貨は、わずか五百円分だけであった。

二月五日午後零時半、大使の訓示が大使館内であった。
「ドイツの立場を川中島合戦の武田信玄、上杉謙信にたとえるが要領不明」とある参加者は書く。

続いて二月十一日は紀元節である。式典は午前十一時半からであった。式にはリッベントロップ外相も参加した。直後に記者団が取り囲むと、外相は疲れきったようにソファーに腰を下ろした。

フランスから逃げ戻ってきた高橋保官補はこの日について書く。

「大使館の例の大広間、再度の空襲のために破壊しつくされた窓ガラスなき部屋で、実に簡単な式を終わった。殊に目についた事は陸海軍人の貧弱さであった。あの日本で見るが如き堂々たる武人ではなく、軟化したる武人であった」

しかし軍人の目から見ると、外交官も状況は同じであった。

「最近のベルリン大使館も別に大した仕事もなく、ただ情報を聞いたり、ラジオを聞いたり、新聞を読んでいたりするに過ぎない。それでも多くの空襲を受けるのでまったく大使館員は食事と、住所と大使館の交通に大部分の精力を使っているといった感じ。したがって、大使館員には何となく生気の躍動を認め得ない」

連夜の空襲で交通網が遮断され、下宿から大使館まで片道三時間くらいかかるようになった。

節目ごとに大使館に集まってきた邦人も、これが最後の集会となる。なお高橋官補はこの日の午後、他の外交官仲間とヴァンゼーでゴルフを楽しんでいる。まだゴルフ場が開かれていたとは少し意外な気もする。これも外交官専用コースか?
 
 
 
<ドレスデン大空襲>

二月十三日の深夜から十四日未明にかけて、英米両国空軍の大編隊によって三波にわたって行われたドレスデンへの空襲は、第二次世界大戦中ドイツに加えられた爆撃の中でも、短時間に集中的に大量の爆弾が投下された点では、最もすさまじいものであったと言われている。

そして降伏直前のドイツの、しかもまったくの非武装都市に対して実施された、ある面無意味な爆撃であることと、さらに一度の爆撃で六万人という多数の死者が出たことから「東の広島、西のドレスデン」と言われているほどである。

ベルリンに週末に出てきた篠原は日本人会でこの空襲が話題にのぼっているのに出くわす。話をしたのはベルリンに住む商社の駐在員で、商用でドレスデンに行っていて、大空襲にあったのであった。

かれはその時は死者の数は分かっていなかったが、見渡すかぎり何千という死体が転がっているという印象であった。

ドレスデンの旧市内は、十センチ四角位の石を敷きつめた古い舗装の車道が多いので、普段のときでも雨の日は車がスリップしやすいところへ、歩道の縁にまでとどくくらいに血がたまっているので、彼がいくらアクセルを踏んでもタイヤが空転してハンドルをとられ、車はほとんど前進しなかった。

そのうちに、火はしだいに燃えひろがって、車の中にいても顔が熱くなってくるし、火を逃れて右往左往する人たちが車道にあふれてくるし、彼は立ち往生した自動車の中で、もう駄目かと半ば覚悟をきめた。しかしその時、逃げまどう人々のあいだから、一人の警官が飛び出してきて、後から車を一生懸命に押してくれたので、やっと危機を脱してベルリンまで辿り着くことが出来た。

ベルリンでこの話をしたときでもかれの興奮は静まっていなかった。
 

 
<邦人リスト>

欧州戦争も七年目の一九四五年に入ると、ドイツは西でも東でも、かつて戦争を始めた地点まで押し戻された。戦場はいよいよドイツ領内となった。邦人も身近にせまるベルリン陥落に備えなければならなくなった。

日本大使館、武官室、報道機関では敗戦対策としてすでに幾人かのスタッフを隣接する中立国スイス、スエーデンに送った。ドイツ崩壊後も活動を続け、日本との連絡網を維持するためである。しかし両国は限られた数の入国ビザしか発給しない。またスペイン、ポルトガルへの唯一の連絡法であった航空路も閉鎖された。

唯一の救いは日本とソ連の間には、松岡外相によって四年前に締結された中立条約が、依然存在していたことだ。この条約によって日本人は、ドイツ人と異なり、アメリカ軍ではなくソ連軍によって保護されれば、無事日本に送り返されるはずであった。

二月、ベルリン総領事館では残っていた邦人すべてに対し、ロシア語で書かれた身分証と保護を依頼する文書を渡した。ロシア兵が進出してきた場合、日本人であることを説明し、保護と無事な帰国を求める護身証であった。

この頃には邦人は殆どがベルリン市内を離れ、郊外に避難していた。かれらの名前と、おのおのの避難場所が記載されたリストが作成された。そのリストはベルリンから日本の外務省に連絡され、さらにモスクワの日本大使館に送られた。そして最後は佐藤尚武大使によってソ連側に渡され、邦人の保護が依頼された。この要請はソ連側に快く受け入れられ、ソ連は全軍にさっそく邦人保護の指令を発したという。

この時作成された邦人リストの原本は見つからないが、外務省外交史料館にはそれを元に作成されたと思われる「在独邦人名簿 昭和二十年一月現在」という記録が残っている。この名簿によれば最後までドイツに残った邦人は、次の様に分類されている。

まず職業別に見ると
大使館関係     一0九名
総領事館関係   三十八名
陸軍関係       六十一名
海軍関係       四十七名
その他の官雇   十名
銀行、会社関係  一一六名
新聞社、通信社  三十七名
その他           一二四名
               五四二名

合計五百四十二名中、外交官、軍人関係者が半数を占めている。

次いで地域的に見ると
ベルリン総領事館内   四八九名
ウィーン総領事館内    三五名
ハンブルク総領事館内 十八名
と圧倒的にベルリン地区に集中している。

ただしこのリストに名前のある邦人のうち約二十名は、実際は入国ビザを得てスイス、スエーデンにすでに避難している。

先に紹介した一九四二年の時点から大きく滞在者が増えたのは、ドイツ軍のかつての占領地から引き揚げてきたばかりの人々が、二百名ほど交じっていたからだ。かれらの中にはフランス、イタリアからの避難者のみでなく、遠くアフリカのモロッコに駐在していた人物もいた。

邦人はすでに分散して郊外に避難をしていたが、イタリアからの引き揚げ邦人三十五名は、ドレスデン近郊にいた。またフランス、ベルギーからの二十八名は北ドイツ、メクレンブルクのいくつかの村に分散した。大人数の社員を抱える三菱商事の関係者は、三十四名がベルリン東方ズコーに疎開した。しかし三月、ズコーの家屋はドイツ軍に徴用されたため、全員ベルリン西方八十キロのリンデの荘園に落ち着いた。

さらにベルリンの北方九十キロの地点には、大使館通商部嘱託を中心とするグループがいた。かれらはその後、付近の小村クレヒレンドルフの古城に避難する。

これらの疎開者は皆、先に述べたように西からのアメリカ軍ではなく、東からのソ連軍が進出してくると思われる地域を慎重に検討して、避難場所に選んだ。
 

 
<外交官の避難>

大使館関係者はベルリン西方のモルヒョウの別荘に避難して片道二、三時間かけてベルリンに通っていたが、二月、三月と二回に分かれ、殆どが南独に向った。ドイツ外務省が南ドイツ(現オーストリア)の保養地バード.ガスタインに枢軸、中立国外交官用に避難所を用意したからである。

「かれらは全員、外交官パスポートを所持するから、アメリカ軍が来ても大丈夫であろう」と、ベルリンに残る民間の邦人は羨望を込めて噂した。また民間人では大使夫妻に可愛がられていたバイオリにストの諏訪根自子のみが、南独行に加わった。彼女の職業は先に紹介した「在独邦人名簿」によれば、大島大使夫人豊私設秘書となっている。大使夫人の好意であろうが、これに対しても民間人の非難があがったという。

大島大使自身は四月十三日、残っていた大使館員、陸軍、海軍それぞれ数名と共にベルリンを離れ、南独(現オーストリア)のバード.ガスタインに避難した。以降は数名の若手の外交官が、ベルリンの大使館の地下壕に残留し、大使館の扱い等に関し、ロシア占領軍との折衝にあたることになった。大使がベルリンを去るにあたっては握り飯日本酒でささやかな送別会が行われた。

もともと居留民の保護の責任を負う総領事館関係者も幾人かが残留し、各地に散らばる在留邦人の保護にあたることになった。よって「外交官は真っ先に民間人を見捨てて避難した」という非難の声もあったが、やや事実と異なる。

他方陸軍関係者数十名は一九四五年早々から南に避難し、後にバード.ガスタインに合流した。海軍関係者は小艦艇を予め手配しておき、最後の瞬間にスエーデンに逃げ込んだ。
 

 
<マールスドルフ>

外交官軍人の疎開先はドイツ側が用意した。また三菱商事のような邦人を多く抱える企業も独自で疎開場所を探した。そうした最後の避難先を見つけられない民間人のために中心となって活躍したのは、領事部の外交官ではなく「日本人会」であった。


それまでも集団疎開については幾度も日本人会を中心に議論してきたが、結論には達しなかった。最後までベルリン市内に残るという残留組の意見が強かったからだ。

二月一日、日本人会の緊急理事会が開かれた。そのとき委員の佐藤彰三が一つの報告を行った。
「ベルリンの南西約七十五キロの地点にベルチヒの村があり、人口は四千人、これまで一度も空襲を受けたことがなく、周囲の近郊にはいくつかの村落も存在している」

いよいよ日本人会はベルチヒ村を集団疎開先に決めた。早速委員数名が現地に向かった。近辺にはマールスドルフ城があり、いざというときには村を離れ、百名以上がその中で暮らすことが出来ることも好都合であった。筆者も訪問したが、城としては特徴の少ない四角い建物である。

ドイツ当局とも交渉してベルチヒ村のホテル.ベルグ.アイゼンハワーを借り受けた。ここに日本人会先遣事務所を置き、直営の日本食堂も営業を始めた。委員は続いてベルチヒ近郊で部屋探しに奔走する。隣接する村を含め数日のうちに百室を確保できた。

ベルリンの日本人会に状況を報告し、ベルチヒへの集団疎開を邦人に勧誘すると、すぐに百名あまりが申し込んだ。民間人に他の選択はなかった。
二月十一日、馬瀬金太郎ベルリン総領事からベルチヒの日本人会にメッセージが届く。
「現況をよく理解し、時勢にふさわしい態度、日本人として尊敬を受けられるような態度が望ましい」というものであった。

ベルチヒでの避難生活が始まると、主食である米は北イタリアから入手し、大使館員は下落の始まったライヒスマルクをドルに替え、物品の購買費用にあてた。皮肉なことに最後に頼りになるのはアメリカのドル紙幣であった。

イメージ 1
イメージ 2
マールスドルフ城(筆者撮影) 下の写真の手前天井部分に当時の面影が残っているとのこと。

 
<集団帰朝>

四月に入るとソ連軍のベルリン総攻撃は最終段階に入る
同月四日、疎開組に加わらずにベルリン残留を決めた舞踏研究家である邦正美は、かつて日本人の多かったベルリン市内を車で見て回った。街にはドイツ人があふれていた。「どうしてこんなに大勢の人たちが歩いているのだろう」といぶかしがるほどであった。公共の乗り物がほとんど動いていないからである。

最後まで開いていた日本人会館も建物と看板はそのままだが、ドアは固くしまっていた。あけぼ乃は看板もなくなっていた。関係者も疎開組に加わっていた。

四月十四日、ソ連軍の最後の総攻撃が始まった。同じ日にベルチヒに分散して滞在する邦人に対して、マールスドルフ城に集結するよう指令が出た。

城には様々な社会の日本人が集まった。外交官、商社員、留学生等の他にサーカス団員、柔道師範など、当時の日本人が海外で活躍する事の出来た、ほとんどの分野にわたっていた。
自治会が組まれ、皆が平等な自給自足の合宿生活が営まれた。城には電気も電話も通じなかった。


そこには近衛秀麿の夫人とされる澤蘭子の姿があった。五歳の近衛暁子を連れていた。近衛はアメリカ軍に投降しようと、独自の行動をとっていた。また二年前にスエーデンで連合国と接触してベルリンに連れ戻された崎村茂樹も会に加わった。

日本人会の会長は依然横浜正金銀行の久米邦武であったが、銀行は業務を続けざるを得ないためベルリンに篭城することになった。そこでマールスドルフ日本人会会長として新たに昭和通商の永井八郎が選ばれた。

五月二日、ヒトラーの戦死(実際は自殺ー筆者)とベルリン陥落の知らせが城にも入った。三日、ソ連軍は邦人が最近までいたベルチヒの村に入った。ソ連軍の進駐に備え、城の門にロシア語で「日本帝国総領事館」の門標を掲げ、屋上と門に日の丸の国旗を掲げた。日本が必至に維持してきた日ソ中立条約が役に立つ時が来た。

婦女子は万が一に備え三階の一室に隠れた。翌四日午前七時四十分、城に五名のソ連兵が現れた。ロシア語の得意な横井喜三郎が、この城は日本総領事館で在留邦人の避難所であると説明すると、ソ連兵は二人を歩哨に残し退去した。
(「横井喜三郎 ロシアに最初に日本商店を開いた男」はこちら。)


そして一個小隊の兵士がやって来て、それから絶えず邦人の保護にあたった。二月の保護依頼が伝わっていたのだろう。ベルリンではドイツ人に対し、強奪の限りをつくしたソ連兵であったが、日本人には恨みはなかった。幾人かが腕時計、万年筆を奪取されたくらいで済んだのは幸いであった。

五月十三日、日本人会によって園遊会が企画された。そしてソ連兵も招待した。
「日ソの民謡の交歓があり、ソ連兵も自国の民謡が日本人の音楽家のバイオリンで演奏されるのを、目を細めて聞き入っていた」と当時の滞在者の日記に記されている。

十八日早朝、ベルリンよりソ連国境警備師団長が来て、本日中に全員ベルリンに発ちそこからモスクワ経由で帰国させると伝えた。軍の命令であるから従う外ない。皆をホールに集めると永井会長が「今日午後をもってこのマールスドルフ日本人会を解散することになりました。詳しい事情は総領事からお願いします」と発表した。

そして馬瀬総領事が「只今十一時ですが二時までに荷物を作り、午後四時トラック十台をもってここを立退く」と伝えた。一行は四時、トラックに分乗してベルリンのリヒテンベルク駅向かう。同駅に着くと、そのまま近くの民家に二泊する。そこにはベルリンの大使館の地下壕に篭城していた大使館員のほか、スイス、スエーデンの中立国の人々もいた。みな知恵を出して、戦禍を逃れたのであった。

二十日、百五十二名にふくれた邦人は、ベルリンを出発する。途中の鉄道は何ヶ所も寸断されていた。二十五日朝九時、ようやくモスクワに着く。モスクワでは一行は、駅を出ることすら許されなかった。代表十数名のみが日本大使館が赴いた。佐藤尚武大使は残留希望者に対して、一刻も早い帰国を厳しい口調で伝えた。ソ連はすでに日本との中立条約の非延長を伝えてきて、大使館内は殺気立っていた。

それでも病気、身重等でどうしようもない九名がモスクワに留まり、列車は午後四時東に向って出発した。広いシベリアの広野を走るとき、ヒトラー政権下のベルリンオリンピックのフィルムを新聞社に託されて運んだ横光利一が「なんてばかばかしく広いんだろう」と嘆いた紀行文を多くの人が実感した。シベリア鉄道の列車が満州国境に着いたのは、六月三日であった。

同地の国防婦人会の奉仕によるカレーライスの御馳走は、マールスドルフ城に避難して以来五十日近い避難行の後で、最高の潤いであった。そして一部満州で残った邦人を除き、全員無事日本に帰り着く。ただし日本はまだ戦いを続けていたので、かれらはまたアメリカ軍の空襲を受けることになる。


他のベルリン近郊の避難所の邦人も同様に、皆無事に帰国する。どこでもロシア語で作成した保護援助の依頼状が大いに役立った。そしてごく一部、自分の意思でベルリンに残った邦人もいた。

また南に避難した大島大使ら百八十余名はアメリカに送られた。軍人は何度かの取り調べを受けた。かれらは終戦の年の十二月六日、アメリカ船で浦賀に着く。

 
<ベルリンその後>

邦人の去った占領されたベルリンは、建物はほとんど崩れ、石の壁が道に沿って黒く残った。戦後まもなくして再びベルリンを訪問した邦人によれば大使館はかなり姿を残したが、陸軍武官室のあった建物は取り壊された。その隣にあって日本からの軍人がよく利用したホテルザクセンホーフは元の場所ですでに営業を開始していた。海軍事務所は頑丈であったためか土台が残った。日本人会の建物は壁だけであった。

ティアガルテンに威容を誇った日本大使館の建物は、戦後の東西冷戦時代は荒れるままとなり、筆者も二十数年前、立ち入りを禁止する柵越しにくすんだ姿を見ることが出来た。しかし一九八七年に日独文化センターとして再建された。建築家黒川紀章の設計だが、往時の重厚なイメージは残された。また外交官が身を潜めた頑強な防空壕も取り壊されずにその庭に残っている。そしてドイツ統一後には再度日本大使館として利用されることとなる。最後に今日もベルリンに日本人会があるのかは、筆者は寡聞にしてわからない。

                      終わり
 

筆者のメインのサイト『日瑞関係のページ』はこちら

筆者の著書一覧はこちら