Have a nice tommrow !!

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エリラボ( http://erilab.net/)の中の人、エリクソニアンでアドレリアンな理系セラピストのつぶやき

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「あの人に実力がある」なんてことを、私たちは時々、言ったり聞いたり思ったりします。

では、その「実力」って何なんでしょう?

私は、実力というのは、その職業・役割・立場に対して
持っていて欲しい、持っていてしかるべき、と求められる能力のことなんじゃないかなぁって思います。

通訳の人は、英語なら英語、フランス語ならフランス語を、
極力そのもとの言語のニュアンスのまま日本語に変える能力のことでしょう。

そうなると、通訳の人は、その訳す対象となる言語の知識と同時に、日本語の知識や能力も必要でしょう。

また、医療通訳やケミカル分野の通訳など、何か特殊な分野の通訳の人は、
上記の二つの他に、ある程度の医療知識なり有機化学知識なりも必要となります。

例えばSTAP細胞の一連の騒動で
色々な意味で有名になった小保方さんは
STAP細胞という現象が、実際にはあるのかないのか、それとは別に
科学者として必要とされる、実験の検証方法や、
それを他の人にも検証可能であることを証明するために必要なものが、ごっそりと抜け落ちていました。
それは、科学者としては、実力がないとするしかないでしょうということです。

バスケットの試合で、足でボールを蹴ってゴール下まで持って行ってゴールを決めたとしたら
どんなに、「ルールを知らなかっただけです、ゴールにボールを入れる時には手で投げていれたじゃないですか!」
と言っても、誰もそれを得点と考えてはくれないのと同じことです。

でも、今回たくさんの人が
あの瞳を潤ませて
「STAP細胞はあるんです、信じてください」
と訴えた小保方さんを擁護したい気持ちになったようです。

それはなぜなのか?
ひとつには、多くの人は、バスケットのルールよりも科学のルールを知らないこと
そしてもうひとつは、
多くの人の可哀想という感情に訴えるのが、小保方さんは上手であったということなんじゃないでしょうか?

人によっては、「女子力」という表現をした人もいました。
# まぁ私はそもそも「女子力」ってなんや?ぅていう
# 人によってかなり定義にばらつきのあるこの言葉自体
# あまり使う気になれないんだけど。

恋愛においては、この女子力なる意味不明なものも、ないよりはあった方がいいのでしょうし
もっといえば、女性が社会の中で上手くやっていくには、女子力もないよりはあった方がいいのかもしれません。

けれど、こういう、中身のない相手の主観にのみ依存するもの
言ってみれば「虚力」。
それはやっぱり、必要な実力にプラスαとしてのものであり
まずは、きちんとしかるべき実力の研鑽の上にのっけるものなんじゃないかなぁって思います。

どうも最近の日本人を見ていると
実力をつける努力から逃げて、
相手の主観依存の虚力をばかり身に着けようとする人が多いような気がするんですよね。
虚力というのは、受け身なんです。
女子力は、それを女子力だと思ってくれる人がいて初めて、女子力になるわけですが
その女子力というものは、見る人によって大きく意見が分かれますから
検証しようがないでしょ?
そういうのを、虚力と私は呼んでいるわけです。

会計士になりたいのであれば、
まずはそのための専門の能力を身につけないと、
お客さんに出していただくお金の対価を持っていないことになります。

肝臓と腎臓の位置や機能の違いがわからない外科医は、
どんなに可愛げがあっても、まず誰もその人に外科手術を受けたいとは思わないでしょう。

今、日本の社会は不景気で、昔のように牧歌的な世界ではありません。
それぞれの職業に求められる専門性は高くなっています。

それは、ひとつには、ネットの発達によって、
一般の人でもある程度の知識を得られるような環境が整備されたことから
専門家には、より一般人にはない知識や能力が求められるようになって、
ハードルが昔よりも高くなっていることもあるかもしれません。

ただ、どういう要因があるとしても
組織において求められる人材になるためには
コミュニケーション能力だけではやっていけない、ということです。

お金というのは、言ってみれば交換システムです。
手間や知識や技術
それとの交換にお金を支払うのです。

私たち人間は、快を求め不快を避けたい、そんな風な本能を持っています。
けれど、生きて行くためには、嫌でもやらないといけないことというのがあります。

例えばセラピーができる能力と、セラピストとして食べて行ける能力は、また少し違います。

セラピストというお商売の能力だけあって、セラピストの実力がない人もいれば
実力はあるけれど、お商売の能力に欠けたり、そのための努力はしたくない、という人もいます。
# 中にはどちらもないという人もいますが…;^_^A

小さい頃から、最後は親がなんとしかしてくれる中で育ってきて
昔の子沢山の時代に比べて私たちは、嫌なことでも自分がやるしかなんともならない
という経験をあまりせずに生きてきた人が多いような気がします。

努力する力が養われないまま
逃げることしかしてこなかった人が、たくさんいます。

それでも、親が生きている間はなんとかなるのかもしれません。
ただ、基本的には、親の方が先に死んでしまいます。

親が死んで、残されてからは
自分の人生のケツ拭きをしてくれる人は、どこにもいません。

どんなことも習慣化するには、ある程度の時間が必要です。
今までやってきたやり方を変えるには、新しいやり方をまずはやってみて
工夫をしながら新しいやり方を定着させる時間と経験という回数が必要です。

いつまでも逃げ続けていても、さらにそのやり方が強化されるだけなんですよね。

逃げ続けてきた過去と向き合うのは、すごく勇気がいるし
自己嫌悪の嫌な気持ちにもなるでしょう。

ただ…
自己嫌悪していても、人生は変わりません。
自分が行動していくしか、自分の人生は変えられないのです。

自分の人生を今よりもいいものにしていくために
何をすればいいのか、何を学べばいいのか、どんな風に学べばいいのか
誰から学べばいいのか
それらの知恵を働かせることです。

わからない時は、それについて協力してくれたり、知恵を貸してくれる人に相談すればいいんです。

人1人の知恵なんて、たかがしれています。
だから、相談するのに適切な相手を持っている人や
人に相談ができる人は幸せになりやすい、と言えるかもしれません。

けれど…
どんなに、誰に、相談したとしても
それをやって行くのは自分しかいないのです。
このことを肝に銘じておくこと
人生は、自分の行動でしか作れないことを、常に忘れないこと。

何もせず、ただ夢だけ見て、その快感の中に逃げ込んでいても
人生は変わりません。
現実は、ただ今のままの現実があるだけです。
夢は、それに向かって行動を起こしていった人にだけ開かれているんです。

人生は、行動することで作っていける。
それを肝に銘じて、こつこつと行動していくこと。
それが、あなたを幸せに導く大きな力になりますよ。

というわけで、私も、コビトさんは現実にはいないので
今夜もせこせこと、セミナーのテキスト作るしかないよなぁw


恋愛系のワークショップでは
自分にはどういう人が合うのか?
それを探すということを、よくやるようです。

ただ
ひとつ考えてみてほしいのは
「自分を受け入れて合わせてもらうこと」
それにばかりフォーカスしてないか?

ということ。

相手もひとりの人間です。
神ではなくて、単なるホモサピエンスです。
だから
相手にも望みがあります。

自分を受け入れてもらえることや
自分に合う人を探すことも大事だけれど

どんな人になら、自分も合わせられるか?

その「自分の限界を知る」ことこそが
破綻してしまわない関係、維持できる人間関係の上で
大切な視点なんじゃないかしら?

相手に過剰に我慢させるのも
自分が過剰に我慢するのも
いずれ、その関係は破綻します。

自分は give ばかりになっていないか?
あるいは、take ばかりになっていないか?

give することばかり求めていないか?
take することばかり求めていないか?

それぞれの相手に、その関係性が win – win であるか
ちゃんと give and take という、健全な関係になっているか
それを時々、チェックしてみるといいかもしれませんね。

いくら好きでも、美味しくても、おんなじものばかり食べてたら
栄養が偏って、からだ壊しちゃうじゃない?

なんでも、「ばっかり」ってのは、破滅に向かっていくんじゃないかしら。


同じ戦うのなら
人と戦うのをやめて
自分と戦おう。

人は、目の前にあることにそのまま反応しているのではなく
自分がそれをどう捉えたかという「頭の中にある」出来事に反応しているのです。

人と戦っているつもりで
本当は、自分が頭の中に作ったものと戦っているのですよ。

虹は、確かに見えるけれど
太陽光線が屈折・反射して、そのように見える現象でしかなく
実体のないものですよね。

同じように、私たちは
ある人の言動を、自分の頭の中の屈折・反射によって
そのようにみてるだけにすぎないのです。

日本人は、虹を7色に見ます。
けれど、実際に虹が本当に7色見えるのか?
そこを試して見る人がどれくらいいるでしょう?

ちなみにこのページを見ると、虹の色の数について、よくまとまっているので
参考に読んでみてみられるといいかも。

http://matome.naver.jp/m/odai/2136348699728273201

頭の中にある、「自分の」理屈や常識と、まずは戦って
フラットに物事を受け止めて見ること
そのためには、常に、自分の感じた受け止め方に反証をして
他の可能性も考慮してみることなのかもしれないですね。

自分がみているのは、「在るがまま」なのか「在りのまま」なのか
その答えを知っている人は、多分どこにもいないのじゃないかな。

自分がみているものは、すべて、言葉という、自分フィルターを通したものなのだから。

だから、まずは自分の頭の中と、自分自身が戦うことから始めよう。
多分それが、長い目でみた時に、1番、実があると思うな。


動物は、快・不快の原則で生きています。

お腹が空くと、生命の危機なので
その死という怖いこと不安なこと
つまり不快を避けようとして、エサを探します。

お腹がいっぱいになると
とりあえずしばらくの間、それで命を継続できるので
安心して、満ち足ります。

つまり
怖いこと不安なことを避け、嬉しいこと楽しいことを求めて、生きていくのが動物です。

人間もまた、動物なので、この快・不快原則で行動します。

だから、自分にとって役立つこと、よいことがない限り
その行動へのモチベーションは起こりません。

たとえば、大好きなお友達と意見の違いからケンカをします。
動物というのは、まさに「今そのとき」の中でのみ生きているので、先のことは考えません。
考えるには言葉が必要なので、言葉を持たない動物にはそれができないのです。

ちなみに、論理思考なんて言葉がありますが、論理も同じこと。
言葉なしに論理なんてわかりません。

だから、動物は仲直りという概念がありません。
今この瞬間、気に入らない(つまり不快だ)から、それをなくすために吠えたり威嚇したりします。

けれど、ケンカしっぱなしで仲直りがないと
その相手とは永久にケンカした状態で関係はおわりです。

ただ、ホントは大好きな相手で、できればずっと仲良しでいたいなら
どのような形にしろ、いずれの時期にしろ、仲直りは必要ですよね。

お母様方は、子どもがケンカすると
「謝りなさいっ!」
ってヒステリックに叫んだりしますが
そもそも謝るのは、なんらかの「目的のための手段」にすぎません。

そこを意識させてあげない限り
言葉を持たない動物のように、今この瞬間の不快だけになっている子どもには
なぜ謝らないといけないのか、なんの目的のために謝る必要があるのか
それがわかりません。

子どもならまだ人生の色々なことを経験していないので
そもそもわからなくても当然かもですが
実は大人も同じです。

なんらかの行為は、なんらかの目的のための手段であることがほとんどだったりします。
でも、その目的(アドラー心理学用語でいえば、仮想的目標ですね)は
多くの場合、意識にのぼりません。

なぜなら、人間は同時に二つのことを「意識」することができないからです。

例えば、今朝の朝ごはんの味を思い出しながら、「同時に」自分の目の形を思い出してみてください。

できる人、いますか?

そんな風に、人間は同時に異なる二つのことを考えることはできないようになっているのです。
なぜそうなのか、というのは現在の科学で説明もできるのですが、それは置いておくとして
(興味のある方は、私に脳科学セミナーのオーダーでも出してくださいw)

話を戻すと、そんな風に人間はできているので
手段のことを考えながら「同時」には、目的を考えられません。

そして、手段はどこまでいっても手段なので、別の手段だってあるかもしれません。

人が行動するとき、目的を明確にすることで、その手段への動機付けができます。

言い換えると、それをやるモチベーションを起こすためには
その行為の「意味を明確に」する必要があるということです。

ただ、片付けなさい!と子どもに言うよりも
片付けることで、子どもにどんないいことがあるか、それを「明確に」理解すれば
そしてそれが、子どもにとっての快につながるのであれば、放っておいてもそちらへ向かいます。

よく
「あなたのためなのよ!」
なんてことをおっしゃるお母様がいらっしゃいますが
「何が」「どう」自分のためなのか
それがわからないのに、あなたのためなのよ、だけ言われても
意味わからん、ってことですよ。

また、お母様の価値観で、◯◯につながるよ、と言ったところで
その◯◯に子ども自身が価値を感じられない
つまり快につながらなければ、それはモチベーションにはなり得ません。

人が行動を起こすには、具体的に、かつ、本人にとって価値のある目的を意識できることが大事ってことです。

ここで最もやっちゃいけないことが、論理的にはなんのつながりもない動機付けをすること。
つまり、その行為とはなんの関係もないエサで釣ることです。

テストでいい点数をとったら、新しいゲームを買ってあげる!
とか、そういうことですね。

そんな風な動機付けをすると、その子は、そのエサがないとその行動をしなくなります。

イルカやアシカは、芸をするとご褒美に小さい魚がもらえます。
(イルカやアシカのショーをよく見てみると、必ず何か芸をしたあとに、ご褒美のお魚をもらっていますよね?)
反対にいうと、お魚をもらえるのではないとき
つまり好きに水槽で泳いているときには、わざわざ芸をしてみせてはくれませんよね?
それと同じことが、その行動と論理的つながりのない賞罰で人を動かすときに起こります。

そうではなくて、その行為は、その先の将来にどんなよいことがあるか、という
明確な意味を本人が理解することで
その行動に対して、環境(ゲームが買ってもらえても、もらえなくても)に関係なく
その行動を続けていくことができます。

つまり、賞罰をやめて、その行動の意味を明確にすること
それが何よりも継続のためのモチベーションにつながるということです。

ケンカしちゃったの?
どう?この先もう、◯ちゃんとは一緒に仲良く楽しく過ごせなくてもいいのか
それはやだなって思うのか
あるいは、どうでもいいのか
色々あると思うのだけれど、あなたはどう思う?

まずは、その望みを明確にしてから
じゃあ、また以前のように仲良く遊ぶにはどうしたらいいと思う?
と質問してあげると、謝ると言う「行為の意味」が理解できますよね。

人にも自分にも
その行為の意味、どういう目的のための手段なのか
それを明確にしていくといいですね。


インスタントなスキル
式・解法ではなく単なる答え
お手軽・便利なテクニック

今、日本人の多くは、そんなものを求める人たちでいっぱいだ。
心理なんちゃらを学ぼうとしている人たちも
実は、テクニックや答えが欲しいだけで
深い決意をしている人たちは、案外少ない。

解法を知らずして、答えを丸暗記したところで、何になるというのだ?
いつもいつも、まるまんま同じ問題が出題されるわけない
そのことは、受験を経験した人ならみんな、知ってるはずだ。

それと同じように、人の悩みや心の問題は
ひとりひとり、みんな違う。

例えばよく
鬱を克服した私だからこそ・・
なんて言葉をひとつのウリ文句にしたカウンセラーというのがいる。

確かに、鬱を経験したことのない人には
そのつらさは理解ができないかもしれない。
だからといって、鬱の症状も、千差万別、ひとつではないのだ。

悲哀感や抑鬱感を自覚しないのだけれど、何をする意欲も全く起きない。
例えば、身体はトイレに行きたくて漏れそういっぱいいっぱいなのに
起き上がってトイレに行く意欲が、どうしても起きない。
かといって、自殺したいとか、悲哀感があるかというと、
そういうものはない。

そういう形の鬱もあれば

少しの決心で、動こうと思えば動けるけれど
いつもいつも、心の中は絶望でいっぱいで、何も希望なんてものがなくて
ただただ、希死念慮だけがある。

そんな鬱だってある。
そのほかにも、その方その方、少しづつみんな違う。

そして、鬱を経験しそれを克服したあなたの鬱が
全ての鬱の人と全く同じ、ではない。
それを忘れてはいけない。

あなたの使った克服法は、全ての人に使えるものでもない。
それを忘れてはいけない。

どんなときも、最大限の想像力をもって
その相手固有のものを見つけると同時に
その「相手の中に自分を見つける」こと
それができなければ、個人を個人として尊重できない。

心理なんちゃらで、テクニックや答えだけを求めるということは
実は、世界にたった一人しかいない目の前の相手を
「十把ひとからげ」に見てしまう、
とても失礼で愚かで奢った考え方ではないのだろうかと思う。

ある FtM の方のセッションをしたときに
 「みんなわかってくれない」
と言うから

「みんなあなたの気持ちをわかってくれない。
 そして、わかってくれない人たちのこと
 それをあなたは、恨むかわりにわかろうとしてみたことがありますか?」
と聞いてみたとき
その方の中に、何かが開けた

求めるだけだった自分の生きかたが苦しみの原因だった
そのことにお気づきになられたのだ。

人間は、自分がわかって欲しいことを相手がわかってくれないとき
常に、相手を悪者にする。

そのことに気付いて
そして相手の、みんなのその姿の中に
全く同じことをしている「自分の姿を見て」
自分もそうなのに、どうして相手だけを変えることができる?
という、当たり前の疑問に、やっと本当に心の底から気がついたのだ。

相手を責めながら、実はそれは
その相手の姿の中に有る自分の姿を責め続けていたのだということ
だから、自分を受け入れることができなかったのだという
そのことに、お気づきになられたのだ。

けれど、じゃあみんながみんな
この質問で何かが開けて、新しい決意を持てるかというと
そんなことはない。

というか、この方の場合
苦しみ抜いて、居場所がなくて、ずっと孤独で・・
そして絶望の淵にいたからこそ
この質問で、何かが開けたのだ。

そうして、自分の持っていた、ある意味実現不可能で、競合的な望み

 # 私をわからないお前たちは私を受け入れろ
 # 私をわからないお前たちのことを私は受け入れない

を、やっと、協力的なもの

 # 私があなたをわからないように、あなたも私がわからない
 # これはフェアなことだけれど、私は受け入れて欲しい。
 # だから、私が先に、私をわかってくれないということを受け入れます

に持ち直す「決意」が持てたのだ。

絶望の、孤独のはて、もうそこにしか行きようがない状態だったから
だから、この私の質問で、新しい決意を持てたのだ。

お手軽インスタントで簡単な答えなんて、人の心にはないよ。

本気で対人援助のプロを目指すなら
お手軽なひとつの決まった答えが欲しいという望みを持ち直すことだ。

それは、ある意味、勇気がいることかもしれない。
けれど、まずは自分自身が成熟することを考えていかないと。

対人援助をする人は、つまりは一時の杖だ。
杖がひょろひょろで、どうやって杖になれるというのだ。

お手軽インスタントな、スキルや答えを求めることをやめよう。
その決意をしたときに、やっと自己の成長への決意を持てて
真の学びが始まるのかもしれないね。