釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -98ページ目

なぜか三如来が並んでいた(京都大原・来迎院ほか)

京都寺めぐりメモ4、大原の残りです。


◆絶対に寄るべき宝泉院◆


三千院と勝林院のあいだにあるのが宝泉院です。
勝林院の住職の坊として平安末期にできたもので、
お寺ではないですが、ぜひ寄ったほうがいいです。


隅々まで手入れの行き届いた庭の樹や花がとにかく美しい。
拝観券が抹茶代込みなので、三千院→勝林院を巡ったあと
ここでお茶を飲みながらほけーっとするのがお勧めです。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

柱の間から見えるすごい松。”額縁庭園”

トイレの横に「入る前にこの真言を唱えましょう」と
カタカナの意味不明の呪文が貼ってあり、
理屈はどうあれ、真言は日常にこういう「おまじない」のある生活
なのかなあと思いました。

http://www.hosenin.net/


◆なぜか三如来そろいぶみの来迎院◆


大原の奥のほうにある来迎院は、
浄土宗の一派・融通念仏宗の開祖・良忍が1109年に開いた寺です。
導線を外れているせいか、由緒あるお寺のわりに参拝客は私一人で、
ちょっと荒れた感じのお寺でした。

でもここが外せないのは、釈迦如来像があるからです。
(日本って、釈迦如来像が少ないのが不満です!)


行ってみると、本堂に無防備に並んでいるのは、
なぜか薬師・阿弥陀・釈迦の3如来(いずれも藤原時代・重文)。
3如来揃いぶみというのは、珍しいですねえ。
別のお堂にあったのが、ここに集められたのでしょうか?
脇侍は不動明王と毘沙門天。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

左から薬師・阿弥陀・釈迦如来。これじゃお釈迦さまが脇侍みたいじゃないですか。


まんなかが阿弥陀如来だったので、
一番偉いお釈迦さまがまんなかだろ?と軽くムッとしました。

この3如来以外は特にみどころもないですが、
意外だったのは、日本最古の仏教説話集とされる『日本霊異記』の
中・下巻写本が来迎院の所蔵だということ(平安中期・国宝、
でも今は京都国立博物館にあります)。


http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000232


◆放火された気の毒な寂光院◆


三千院や勝林院と、バス亭をはさんで反対側にあるのが寂光院。天台宗の尼寺です。
平成12年に放火らしき不審火で本堂が全焼してしまい、
今見られる本尊は、六万体地蔵尊の真新しい復元像です。
ですが、庭もきれいだし、お寺に着くまでの田んぼの風景も楽しいので
時間があれば行くとよいと思います。

さるすべりの白い花が、青い苔の上に散っていて、はっとしました。


近くで温泉を掘ったそうで、足湯カフェがあったので、
大原歩きで疲れた脚を湯につけながらビールを飲みました。



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なにがなんでも極楽へ行く!(京都大原・三千院・阿弥陀三尊像)

(京都寺めぐりメモ、その3)

大原といえば三千院。20年ぶりに再訪しました。
広い敷地の中にいくつものお堂や庭があって、

よく手入れされた紅葉や苔が青々としていて、
1日中でも居座りたくなる素敵なお寺です。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  極楽往生院


往生極楽院にある阿弥陀三尊像(国宝)もとても面白いものでした。
特に、脇侍である観音菩薩と勢至菩薩が「大和坐り」という

珍しいポーズをとっています。


大和坐りは、正座より足を少し開いてお尻をペタンとついた状態から、
少し腰を浮かせて前かがみになった姿勢です。
これは、亡くなった人を浄土にお迎えに行くときに、
「さぁ迎えに行こか、よっこらしょ」と立ち上がろうとする、
その「よっ」の瞬間ですわ、というのがお坊さんの説明でした。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  阿弥陀三尊像


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  前かがみで、よっこらしょ


勢至菩薩は合掌、観音菩薩は往生者を蓮台に乗せるポーズ、
中央の阿弥陀如来の手は「来迎印」という印相を結んでいます
(生前の行いによって人は9つのクラスに分けられるのですが、
写真を見ると下から3番目を表す下品上生印みたいです。
9クラスの、あの世での待遇の違いについては
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10518085795.html


この阿弥陀三尊像は、「極楽に連れていくよ」ということを
全身でアピールしているわけですね。
(奈良・白毫寺の阿弥陀三尊像も、この来迎形式らしいです)


さらに、赤外線で調べてたところ、
お堂の中には三千体の仏がびっしりと描かれていたそうです。
お堂のわりに仏像が大きいので、天井が船底型なのですが、
その天井にも極彩色で極楽浄土の様子が描いてありました。
空を舞う天女や菩薩たちが描かれたその天井画は、
復元されて三千院内の「円融蔵」に展示されています。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  すごい色です。


つまり、この小ぶりなお堂の中は、
これでもかこれでもかという極楽づくしなのでした。
なんとしてでも極楽に行くぞという執念を感じましたね。



また説明してくれるお坊さんが落語家みたいな人でして。
この阿弥陀さまは、あの世でお世話になる方です。
 ただし極楽は完全予約制です。予約すれば必ず行けます。
 必ず枕元に仏さんがお迎えに来てくださります。
 よーくお願いしといてください
」と言っていました。


たぶん、このお堂ができた当時も、
信者にこんなふうな説明をしていたんじゃないかな。
理屈もへったくれもない往生願望の強力さを実感しました。
 
三千院 
http://www.sanzenin.or.jp/



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大原問答―法然さんの勝利宣言(京都大原・勝林院その2)

昨日の続きです。
全然知らずに行ったのですが、
京都・大原の勝林院は「大原問答」の舞台とされています。
平家滅亡の翌年、文治2年(1186年)に、
浄土思想をめぐる法然VS他宗派陣の問答合戦が行われたというのです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
拡大すると「大原問答」と書いてあります


以下は、勝林院のリーフレットの要約です(出典は書かれていませんでした)。


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そのころ大原に籠居していた天台座主の顕真が「生死の出でがたきこと」、
つまり涅槃に達するのは難しいと嘆いて、法然に相談をしました。


法然は「ただはやく往生をとげ候うべし
「成仏はかたしといえども往生は得やすし。
道綽・善導(2人とも中国の浄土思想を確立した僧)の心によれば
仏の願力を強縁として乱想の凡夫、浄土に往生す
」と答えました。

つまり、生存を完全に滅する涅槃に達するのは難しいけれど、
その前段階である「往生」=来世浄土に生まれ変わることは簡単です、
という中国の新説を紹介したわけですね。


ではその浄土の講義をみんなに聞かせてくれ、ということで
法然を大原に呼び、各宗派の名だたる坊さんを集めて
問答が行われたのです。1186年の秋のことです。

法然は、当時の各宗派(法相・三論・華厳・天台・真言など)の
修行法を詳しく述べたあと、言いました。
どれもこれもやってみたけど、難しすぎてムリ!」と。
(「源空(法然自身)ごとき衆愚のたぐいはさらにその器にあらざるゆえ
悟りがたく惑いがたし」「源空発心ののち、聖道門の諸宗につきて
出離の道を求むるに、かれもかたく、これもかたし」)


そして、善導が教えるように、阿弥陀如来の願力を頼んで
ひたすら南無阿弥陀仏(お願い、阿弥陀さま!)と唱えれば、
有智無智を論ぜず、持戒破戒を選ばず」往生できると説きました。


何の努力もせず念仏だけでOKなんて簡単な話があるか!?と、
各派の高僧たちは当然反発して、さまざまな問いをぶつけますが、
法然は一昼夜それを論破して、最後にはみな説得されていました。
・・・と、ここらあたりから”伝説”めいてくるのですが、
法然が正しいという証拠に
勝林院の阿弥陀仏がまばゆい光を発したそうです。
そして各宗派そろって三日三晩「南無阿弥陀仏」を唱える声が
大原の山林にこだましました、とさ。

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釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

「大原談義纂述鈔」。古書店のサイトにありました。


この大原問答伝説がどこまでが史実かは知りませんが、
有力者だった法然が『選択本願念仏集』(1198年)を著したことは
実際に大変なインパクトと反発を招いたそうです。
それ以前も、浄土とか念仏というのはあったけれど、
「念仏だけでいい」と法然が宣言したわけです。
他宗が激怒して反論本を書いたりもしています。


そりゃそうですよね。
例えばみんなが「ダイエットには正しい食事と筋トレ」を推奨してるとき
「テープ巻くだけダイエット」を出されてしまったら、
大衆は楽なほうになびくに決まってます。
しかも、「涅槃=2度と生まれずに完全消滅できる」というご褒美と、
「往生=来世に素晴らしく幸せな楽園に行ける」というご褒美なら、
普通は後者のほうに心引かれますよね。


末木文美士先生は以下のような疑問を呈しています。

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実を言えば、『選択本願念仏集』の論法は必ずしも十分に説得的とは言えない。
確かに従来従属的にしか見られなかった念仏に大きな光を当てたことは
画期的なことであった。しかし、念仏が本当に諸行より勝れているかというと、
なかなかそうは納得できない。念仏以外の行だっていいはずだ。
(中略)
法然は、念仏往生の根拠を弥陀の十八願(無量寿経)に求める。
ところが実は往生の方法を述べた願は別にもある。
それは第十九願と第二十願である。
(中略、さまざまな功徳を積む、念仏以外の行が述べられている)
だが『選択集』では、そのことはまったく触れられていない。
このように『選択集』では浄土念仏の立場を確立することに専念して、
正直いってかなり強引なところがある。


            末木文美士著『仏典をよむ』(09年、新潮社)
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勝林院に行った翌日に浄土宗総本山の知恩院に行きまして、
たまたま朝の法話を聞くことができました。
そこでは、こんなふうなことを言ってました。
「それ以前の仏教は、出家できる人や、お金持ちや、頭のいい人が対象でした。
 文字も読めない庶民、物乞いや、女の人は、対象外だったのです。
 そこで法然上人は、長い長い修行の結果、
 <誰でもいつでもどこでもできる修行はお念仏だ>ということに到達したのです」


でも、念仏以外にも「1日1つ、善いことをしましょう」ぐらいの教えなら、
俗世にまみれた庶民にだって、できたんじゃないですかね?
それを「南無阿弥陀仏」ひとつに絞った法然さんの勝利というべきか。
小泉純一郎のワンフレーズ・ポリティクスじゃないですが、
<大衆が覚えられる言葉は一つだけ>ということを
法然さんは見抜いていたのかもしれません。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

法然上人(東京 龍寶寺蔵)


ただ一方で、それ以前の日本仏教界が、庶民と遠かったことはあるんでしょう。
三論宗と法相宗はややこしい教義バトルをしているし、
天台・真言は山にこもってるし、寒村の農民と仏教とは接点がなさそう。
しかも1181年には旱魃で大飢饉が起こって、
京都を含む西日本の路上は死屍累々、ソマリアみたいな状況だったそうです。
いままさに餓死しようとする人が、薄れる意識のなか「南無阿弥陀仏」と唱えて
安らかに死んでいけるなら、それで充分じゃないか、という気もします。
好きではないけど否定しきれない、という心境です。


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