釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -96ページ目

法華経づくしのマニアックな雑誌「Fukujin」

知人から、えらいマニアックな雑誌を教えてもらい、読んでみた。
仏教雑誌『Fukujin(ふくじん)』。

華やかな執筆陣なのに、書店で見かけたことがない、
そして内容は毎号が法華経・日蓮づくし。
どういう採算なのだろうと思ったら、日蓮宗の雑誌で
会員に日蓮宗のお寺がずらりと並んでいた。


===================================
『Fukujin(ふくじん)』 No.15 (2011年5月31日発行、白夜書房、1680円)

釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

<目次>

表紙:南伸坊がなる松山俊太郎
 特集:松山俊太郎【法華経研究の最前線】
 特集1:対談【世界文学としての法華経】松山俊太郎×安藤礼二
 特集2:鼎談【法華経研究最前線―印度篇】松山俊太郎×松本史朗×菅野博史
 特集3:論評【女神の神話学―ジャン・プシルスキー紹介】安藤礼二


 論考【蒙古襲来史料としての日蓮遺文】川添昭二
 論考【鬼検事・武富済―大逆事件を捏造した男】中川剛マックス
 随筆【私の歴史研究の足跡】川添昭二


 新連載【私家版・戦後日本のジャズの歴史1】奥成 逹
 連載【法華経の世界6 はじめに「法華経」があった―「序品」第一】ひろさちや
 連載【仏教と近代日本13 ファシズムからニヒリズムへ―西谷啓治】末木文美士
 連載【日蓮論4 佐渡の日蓮】島田裕巳
 福神研緊急討論【東日本大地震と『立正安国論』】


====================================



今号の特集は、インド学者の松山俊太郎さん。
澁澤龍彦やなんかと仲良しで、文壇においても伝説の人らしい

松山さんは法華経研究者としても有名で、福神研究所主催の法華経講義を
定期的にやっておられるので、行きたいなとも思ったが到底時間がない・・・。


私の一番の興味は、いったい法華経の何がそんなにいいの?ということだ。
『Fukujin』を読んだら、「世界文学としての法華経」ということが
書いてあった。エジプト~メソポタミア~インドの、ありとあらゆる
神話的イメージが、絢爛豪華な法華経に結実しているという。


なるほど、それならわかる。
法華経は読み物としては、のけぞるばかりのスペクタクルだ。
地中からキンキラキンの巨大な多宝塔がガーンと出現して虚空に浮かんだり、
地面が割れて無数の菩薩がわらわら湧き出してきたり、
法華経を信じないとどんな酷い目に遭うかしつこく脅迫したり。

例えば、多宝如来とお釈迦さまがデュオで説教するシーンも、
さまざまな神話的な背景があるそうだ。忘れたけれど同誌に色々書いてあった。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ 長谷川等伯の多宝如来・釈迦如来(富山・大法寺)

釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

中国の炳霊寺石窟。

メイン+脇侍は多いけれど、デュオは法華経だけ?



個人的には比較神話学といったものにあまり興味はないけれど、
研究し始めたらめちゃくちゃ面白いんだろうなとは思う。


ほとんどのお経は読むと気が滅入るけれど、法華経は読んで元気が出る

という松山さんのセリフには、噴き出した。
(ただ、対談や鼎談のまとめは、日本語が破綻していて読むのが辛かった。
 人手が少なくてご苦労なのかもしれないが、もったいないなぁ)。


私が一番面白かったのは、末木文美士先生の西谷啓治論だった。
長くなったので、これは気が向いたらまた後日。


日蓮宗の雑誌が、なぜこんなに文化芸術的に濃厚で、
『パチンコ必勝ガイド』の白夜書房から出てるのか?
どうやら、福神研究所をつくってこの雑誌を編集している上杉清文さんという方が、

日蓮宗本國寺の息子さんなんだけど、

'60~'80年代にアングラ劇団やパフォーマンスアートをやっていて、
南伸坊さんから白夜書房の末井昭さんまで、その頃からの盟友らしいんですね。
日蓮宗で偉い立場になった今、昔からの仲間で雑誌を、みたいな感じ?
ある時代の、文壇やアート界の華やかなりし社交の香りがした。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

「子供は善」という幻想(第78経「五支物主経」)

前の巻に続いて『原始仏典 中部経典Ⅲ』(春秋社、中村元監修)を
読み始めたので、その備忘録です。


本日は第78経「五支物主経」(最高の修行者たる条件)。

以前、ある宗派の組織内順位が高いお坊さんから話を聞いたとき、
そのお坊さんはこんなふうに言っていた。


生まれたばかりの赤ちゃんは、みんな仏さまなのです。
 赤ちゃんは煩悩も汚れた心もないでしょう?
 おとなになるにつれて様々な欲望にまみれてしまいますが、
 それを一枚一枚脱ぎ捨てればいいのです


私は「あ?」と軽くガンを飛ばしたかもしれない。
それって逆じゃないか?と思ったから。
「子供=清らか」幻想は現代人には耳触りがいいのだけれど、
お釈迦さまはそういう発想を持っていなかったと思う。


修行者の喩えとして、阿含経で見かけるのは
「よくなめされた革のように」「よく調教された象のように」といった表現である。
荒々しく自分勝手で無智な人間を、
理性によってコントロールしていく、というイメージなのだ。
だから上記のお坊さんが言ったことは、ベクトルが逆だと思った。


そんなふうに感じたことがあるので、
第78経「五支物主経」の幼児の喩えが面白かった。


大工の棟梁・パンチャカンガが、遊行者ウッガーハマーナから
このような話を聞く。
善を完成し、最高の善をそなえた、かなう者のいない修行者とは、
4つの特質をそなえている。すなわち、
<身体によって悪い行為を行わず、悪い言葉を語らず、
 悪い思考をいだかず、悪い生活をしない>
」だと。


棟梁・パンチャカンガは、ちょっと疑わしく思ったので、
お釈迦さまのところに行って、この<4つの特質>話をする。

すると、お釈迦さまは、これを否定して、
「もしその4つが大事なら、子供が最高の善ってことに
なっちゃうでしょ。それって変でしょ
」という意味の話をするのだ。


==================================


「棟梁よ、もし遊行者マンディカーの息子である
遊行者ウッガーハマーナのことば通りであれば、
(以下の4つの理由により)仰向けになって寝ている
か弱い幼児は、善を完成し、最高の善をそなえ、
究極に達し、かなう者のいない修行者となってしまうはずです。


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
身体があるという思いすらないからです。
ただ手足を動かすだけなのに、いったいどうして、
ほかに身体によって悪い行為を行うことがあるでしょうか!


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
ことばがあるという思いすらないからです。
ただ泣くだけなのに、いったいどうして、
ほかに悪いことばを語ることがあるでしょうか!


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
思考があるという思いすらないからです。
ただぐずるだけなのに、いったいどうして、
ほかに悪い思考をいだくことがあるでしょうか!


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
生活があるという思いすらないからです。
ただ母乳を求めるだけなのに、いったいどうして、
ほかに悪い生活をすることがあるでしょうか! 」


『原始仏典 中部経典Ⅲ』第78経「五支物主経」 林寺正俊訳
==================================


つまり、子供は何にもできないから善きものに見えるだけ、という話。
お釈迦さまが子供を美化した痕跡は、お経に出てこない。
息子が生まれたときに「障害(ラーフラ)になるものが生まれた」
と口走っちゃうぐらいの人ですからね。

今なら「命名:ラーフラ」って役所が受理してくれませんね。


仏教と関係なく、世の中全般に、
「子供は無垢で、大人は汚れている」というイメージが流布しているけれども、

これはたぶん近代に生まれた幻想だと思う。
自分の子供時代を思い出せばわかるでしょう。
私は5~6歳のころ、今よりずっと残酷で自分勝手で荒々しくて生きにくかったもの。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

坊主頭+袈裟で2割は男前になる(「アブラクサスの祭」)

(どうもデスマス調は書きにくいので今日からいきなりデアル調。)


昨年公開された映画『アブラクサスの祭り』がDVDになったので見た。
原作は臨済宗の禅僧・玄侑宗久さんの同名小説で、
ロックを捨てきれない、鬱病の迷える坊さんが主人公。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


通いのお坊さんで、マンションに帰ると普通に妻子がいて
毎晩のように酒を飲んでいて、ほとんど普通のサラリーマン。
日本の通勤僧の等身大なのかもしれないけれど、
この人にお布施をする理由がわからないし、
この人の勤務先に法人税がかからない理由もわからない、と
軽く不愉快になった。コメディタッチの前半はね。


玄侑さんが原作だから、仏教的に大きく外すはずがない、
と思って観ていたら、果たして後半は面白くなってきた。
檀家さんのヘビーな死とか、その息子との会話、供養、
荒れる海との対峙、死期が近い犬、お寺でのライブ・・・
もろもろのシーンを通して、
仏教、というか禅に触れた、という気分にさせてくれた。


原作は未読だけれど、もっとシリアスな純文学らしい。
主人公は、統合失調症含みの躁鬱症で、精神の病とか迷いの内面とか
最後のライブ=祝祭の中での啓示とかがもっと描かれているらしく、

どうも映画より原作のほうがよさそうだ。

釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


思うんだけど、坊主頭+袈裟って、2割増しで男前になりますね、
主役のスネオヘアーが、普段よりずっといい男に見えたもの。
袈裟でギターを弾くと、それだけでカッコいいし。

非モテの男性が、剃髪をして袈裟を着た途端にモテ始めて、
檀家の後家さんに迫られてもうたいへん、みたいなことは
現実にあるのだろうか? あるような気がする・・。


映画のロケ地は福島原発から約40キロの福島県三春町。
地元の人もエキストラで登場している。
このフィルムに残っているのは、
事故が起こる前の風景なんだと思うと、やるせない。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村