釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -95ページ目

オウムが最初にアニメ化した経典?(中部82経「ガティーカーラ経」)

「中部経典」メモの続き。


貧乏人の在家信者があまり出てこない仏典にあって、
珍しいのが中部第81経「ガティーカーラ経」です。
極貧で信心深い在家信者、ガティーカーラ陶工が登場するのです。


アーナンダとお釈迦さまがコーサラ国を巡遊しているとき。
お釈迦さまがある場所で、くすりと微笑します。
如来は理由なく微笑さえしないそうで、
アーナンダが理由を聞いたら、思い出し笑いだったんですね。
でもお釈迦さまだから、そんじょぞこらの思い出し笑いではなくて、
前世を思い出して微笑んでいたのでした。


前世で、お釈迦さまがバラモン青年ジョーティパーラだったとき。
ガティーカーラ陶工(陶器をつくる職人)という親友がいました。

ガティーカーラは貧しく、目の見えない両親を養っていて、とても出家する余裕はありません。
ですが、大変に信心深くて、ジョーティパーラ=前世のお釈迦さまを
カッサパ仏に会わせようとします。


ジョーティパーラが「そんなハゲの修行者に会って何になるんだ」と言うと、
ガティーカーラはジョーティパーラの腰帯と髪をグワシと掴んで、
会いに行こう会いに行こうと言う。

陶工のような低いカースト階級の者が、バラモンの髪を掴むとは
よっぽどのことだと思ったジョーティパーラは、カッサパ仏に会いに行き、
出家をします。前世のお釈迦さまは、この親友のおかげで出家したわけです。


ガティーカーラは、超貧乏なのだけれど、
出かけている間に家に比丘たちが来てご飯を食べていっても、
またカッサパの僧坊の雨漏りを直すために比丘たちが
自分ちの工房の屋根の草をはがしていっても、ニコニコしています。


そのせいでガティーカーラ家は3か月間も天井がなくなって
雨がザーザー振り込む状態だったのに、
「私にとって素晴らしい利益だ」と幸福感に満たされたというのです。


比丘たちもめちゃくちゃするなあ、と思いますが、
お経の中では、王から荷車500台分の米を贈られて、
ガティーカーラの功徳は報われることになります。

お釈迦さまは、そんな前世の親友・ガティーカーラを思い出して微笑み、
お経の註では「理想的な在家信者とされる」と書かれていました。


ここで私は、「ガティーカーラ」をネットで検索して、嫌なことを発見しました。
漢字表記がめんどくさいからコピペしようと思ってググッたところ、
ヒットしたのはわずか200件弱。Ghatikaraだと、世界で6400件。


あまり興味を持たれてなさそうなこのお経で、
ヒットしたいくつかは、オウム真理教がらみだったのです。

それによると、オウムが初めてアニメ化した経典が、ガティーカーラ経だと。
麻原のスピーチを全文掲載している物好きなサイトがあって、
下のようなテープ起こしが出ていました。


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◆91/6/27 麻原の話(阿蘇・シャンバラ精舎にて)


はい。それでは歌がね、ずっと続いたんで、今度は「ガティーカーラ経」、
これは経典をアニメ化した、初めてのものです。
で、このアニメのかたちは、意図的に紙芝居方式、つまり動きのない絵を使っています。


《「ガテイカーラ経」上映》


 「ガティーカーラ経」の経典の意味合いは何かというと、二つあります。
その第一はグルと弟子の関係、つまり、覚者カッサパと、そして、
ガティーカーラ陶器職人の関係です。
この中で、ガティーカーラは、覚者カッサパの意向に対して、一つの不平もなく、
逆にそれを利益だと考えている。
まさにこれは、覚者カッサパのなした修行体系がマハームドラーであったということを
表わしています。
そして功徳というものは、もちろん率先して積まなきやならないわけだけど、
それだけではなくて、自分の理解できないことに関しても、覚者の教えについては、
しっかりとついてくるということを表わしてるわけです。
例えばそれは最後の屋根がそうだね。
 

http://www015.upp.so-net.ne.jp/sinzinrui/fs4/184-187.html


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ほかに、富士総本部でも、このアニメを上映した記録が出ていました。

オウム真理教は、信者の財産をごっそり巻き上げたと言われていますが、
「ガテイカーラ経」に素直に典拠したのか、あるいは確信犯で利用したのか・・。
いずれにせよ、このマニアックなお経を「最初にアニメ化」するには、
経典全体を読み込んでいたように思われます。


実際、屋根を剥がれて有難がっている在家信者のガティカーラ経は、
ここだけピックアップすれば、教団に都合のいい教えとも言えるでしょう。


肉体的な苦行を推奨したりしたオウムは、経典をロクに読んでいない
いい加減な集団かと思っていたのですが、そうでもないような・・。
元オウム信者の回想録など読んだ人には「いまさら」な話でしょうが、
私は何も読んでないので、ちょっと読んでみなくては、と思いました。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ テーラワーダ協会の佐藤さんが、ブログでこの本を紹介していた

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ まずは当事者記録かな~。


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ブラジルのスラム街の菩薩(映画『ファヴェーラの丘』)

『ファヴェーラの丘』という映画をDVDで観た。
4月に東京都写真美術館で公開されたブラジルのドキュメンタリーだ。
めちゃくちゃ良かった。

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麻薬ギャング、腐敗した警察に支配されたリオデジャネイロのスラム街は
“ファヴェーラ”と呼ばれる。
本作は、数あるファヴェーラの中でも最も危険な地区として知られるヴィガリオ・ジェラウを舞台に、
絶望的で息詰まるような日常から、希望ある未来を子供達に示そうと立ち上がった男を追った
ドキュメンタリーである。

男の名はアンデルソン・サー。
家族や多くの友人をギャングや警察に殺されたアンデルソンは、悲しみともに
「なぜ憎しみ、殺し合うのか?どうすれば暴力を止められるか」を考え始めた。
「音楽は誰の胸にも響く!」ひと筋の光を見いだした元麻薬売人の彼は、
仲間とともに『アフロレゲエ』というグループを結成。
自らの悲劇を繰り返さないため、ギャングを夢見る子供達を救うため、
銃や暴力ではなく音楽やダンスを武器に、ファヴェーラの丘に希望のリズムを響かせていく。


                              映画の公式サイトのコピペ
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(予告編)



ファヴェーラは麻薬密売人の巣窟で、世にも悲惨な苦界だ。
警察も腐敗の極みで、密売の利益を得ながら、
部隊を送り込んで一般人でもかまわずブチ殺す。
政府も警察も、また神も、ファヴェーラを救ってくれない。
これを見ると、日本なんか極楽に見える。

アンデルソンは、ほとんど如来か菩薩みたいだった。
「将来の夢はギャング」という子供をアフロレゲエに誘って音楽を教え、
ギャングが目の前で拳銃を抜いても更正しようと説得し、
リンチしようと大集団が襲ってきても逃げずに微笑しながら坐ってみせる。
でも、救ってやるというのではなくて、
キミが望んで変わるしかないんだよ、という自力救済。
そこは大乗の菩薩とは違うかな。

アンデルソンが着ているTシャツの絵は、なぜかシヴァ神だった。
仏陀Tシャツのほうが似つかわしいのにな。

お釈迦さまが説いた戒のなかに、
「踊り・歌・音楽という娯楽を鑑賞することから離れる」というのがある。
この戒ばかりは、確信犯的に破らせてもらいます。

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戒・定・慧の遠い道のり(中部第79経「箭毛経Ⅱ」)

本日は中部経典第79経「箭毛経Ⅱ」(―釈尊のもとで修行する理由―)のメモ。


仏教の修行道を表す基本タームとして
戒・定・慧(かい・じょう・え)」という言葉があります
辞書的には、行動規範の戒、精神統一の定、真理を知る慧、
などと説明されるなすが、まぁなんとも長い道のりですわ。


戒・定・慧の全体像を記したお経として、
長部第2経の「沙門果経」が有名ですが、
この「箭毛経Ⅱ」も戒・定・慧が書いてありました。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

「五戒を守る僧侶の会」という超宗派の会があるんですね。

代表は真言宗の木下全雄さん。http://gokaiga.aikotoba.jp/index.html


たとえば戒について「不偸盗」とか「不妄語」とかに略すと
覚えやすいのだけれど、いまいち生身な感じがしないですよね。
でもお経に出てくる長いことばを読んで書き写すと、
たいへんに身につまされる、身に染みる・・・・。

以下は、頭に叩き込んでおきたい戒の部分の現代語訳写経です。


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生き物を害することを捨て去り、生き物を害することから離れるようになり、
棍棒や刀を置き、恥を知り、憐み深く、あらゆる生き物に対して友好的で
憐みの情をもってすごします。


与えられていないものを取ることを捨て去り、与えられていないものを
取ることから離れるようになり、与えられたものを取り、与えられるもの
だけを期待し、盗まないことによって清らかとなった心をもってすごします。


不純な生活を捨て去り、純潔の修業を行う者となり、不純な生活から遠ざかり、
卑俗なことがらである性的行為から離れます。


嘘をつくことを捨て去り、嘘をつくことから離れるようになり、真実を語り、
約束をまもり、正直で、信頼でき、世間を欺かない者となります。


中傷のことばを捨て去り、中傷のことばから離れるようになり、
こちらで聞いてはこちらの人々を仲違いさせるためにあちらで語らず(略)
このようにして仲違いした人々を和解させ、仲良くしている人々をより
いっそう仲良くさせ、和合を楽しみ、和合をもたらすことばを語る者となります。


粗暴なことばを捨て去り、粗暴なことばから離れるようになり、
やわらかく、聞きごこちの良い、愛情にあふれ、心に訴えかけ、上品で、
多くの人々に愛され、多くの人の意に沿う、そのようなことばを語る者となります。


つまらないおしゃべりを捨て去り、つまらないおしゃべりから離れるようになり、
ふさわしいときに語り、事実について語り、意義のあることについて語り、
教えについて語り、戒律について語る者となり、心にとどまり、理にかない、
区切りがあって、意義のあることばをふさわしいときに語る者となります。


(中略・・・1日1食とか、金銀を受け取らない、といった項目が並ぶ)


身体を保護するだけの衣と腹を保持するだけの施しの食べ物によって
満足するようになり、どこに行くにも、まさにそれだけをもって行くのです。
それはあたかも翼のある鳥がどこに飛んでいくにも、まさに翼だけをもって
飛んでいくようなものです。


この高貴な道徳の体系を守り、内面において非のうちどころのない
安楽を経験します。
              
      『原始仏典 中部経典Ⅲ』(春秋社)「箭毛経Ⅱ」 林寺正俊訳    
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翼だけをもって飛んでいく鳥のように」ってかっこいい表現ですね。
全身ユニクロでいい・毎晩ガストでいい、などと言うと
つまんねぇヤツだと蔑まれる現代ですが、
身体と腹を保持するだけで別にいいじゃないですかね。

でもガストはちょっと嫌かな。

「箭毛経Ⅱ」では、お釈迦さまがジャイナ教徒のサクルダーインに、
戒・定・慧の修行体系を懇切丁寧に説きます。
ところが最後、サクルダーインがお釈迦さまに帰依しようとすると、
取り巻きが「ゴータマの弟子になるなんてとんでもない!
おやめください」と猛反対。
このようにして、遊行者サクルダーインの集団は、
かれが尊師のもとで清らかな修行を行うのをさまたげた
」で、
お経はブツッと終わってしまいます。


え~っ、お釈迦さまにあれだけ延々と説明させといてオチがそれ?

と拍子抜けですが、こういう無愛想な終わり方も味わい深いものです。




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