釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -93ページ目

増上寺の釈迦三尊像が戦後初の一般公開

今年は法然上人の没後800年。

そこで浄土宗大本山の増上寺(東京・芝)の三解脱門2階内部

に安置された釈迦三尊像と十六羅漢像が

明日から公開されるそうだ。一般公開は、なんと戦後初めて。

三解脱門が国指定文化財なのに対して、

釈迦三尊像・十六羅漢像は、東京都の指定文化財だけれど、

写真を見たところ、良いお姿。これは是非いかなくっちゃ。


【日程】平成23年9月17日(土)~11月30日(水)

【時間】10:00~16:00(入場は15:30まで)

【拝観料】500円(記念品付き)

http://www.zojoji.or.jp/index.html



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三解脱門                       2階内部

ということを知ったのは、

今日9月16日に増上寺で「仏教成人大学」として

花園大学・佐々木閑教授の講演があって、

仕事をほっぽり出して聞きにいったのでした。

テーマは「大乗の仏と菩薩」。


もう、今までの疑問が20個ぐらい一気に氷解しましたよ。

「そうだったのか!大乗仏教」、池上彰か、というぐらい。

架空のたくさんの仏たち・菩薩・利他(現世的な人助け)という大乗セットが

生み出された必然性とか、

浄土系のお経、法華経、華厳経、密教系経典が

本質的に何が違うか、とかを理路整然と説明していただいた。

けっこう自分で本も読んでいたけれど、

木を見て森を見ずで、キモが全然わかっていなかった。

長くなるので講義の内容は書きませんが・・。


あと感動したのは、前に坐っていた高齢のご婦人の親切さ。

今回、参加者のほとんどは浄土宗の信徒さんで、

いきなりみんなでお経を唱えて始まった。

私がボーッとしていたら、前の机の婦人が背中で気配を感じて、

振り向いてお経の冊子を貸してくれたうえ、

お経が変わるたびに振り向いて「何ページ」と教えてくださったのだ。

仏教徒はこうあらねばならないなあと、

日ごろから不親切な我が身を反省した。




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愛は苦のもとか喜びのもとか(中部87「愛生経」)

本日は中部経典第87経『愛生経』(愛より生じ、愛が引き起こすものとは)。

これはとても印象深いお経でした。
誰をもなにものをも愛さない人生って、可能でしょうか?
そういう人生を選びたいでしょうか?


要約すると「愛生経」はこんな中身です。

(青字は、『原始仏典 中部経典Ⅲ』春秋社、87経・田辺和子訳の引用)


===============================


ある資産家が愛する一人息子を亡くしました。
資産家は食事ものどを通らないほど悲しんで、
あるときお釈迦さまの横に座りました。

お釈迦さまが「どうかした?」と訊くと、資産家は息子が死んだこと、
「一人息子よ、どこにいるのか?」といって、火葬場に行っては泣いている
と打ち明けます。


それに対するお釈迦さまの発言。
それはその通りです。資産家よ。なぜなら、憂い、悲しみ、苦しみ、
 嘆き、悩みは、愛より生じ、愛が引き起こすものなのですから


これに資産家は反発します。
愛より生じ、愛が引き起こすものは、喜びと楽しみです
と言って、お釈迦さまを「非難して席から立ち去った」。


そのとき「多くの博徒たちが世尊の近くでさいころで遊んでいた」ので、
資産家は博徒たちに、ことの顛末を話します。
すると博徒たちは資産家に賛成して、
喜びと楽しみが愛から生じ、愛の引き起こすものなのだよ」。
なんでお釈迦さまの横でサイコロ賭博をやってるのか不思議ですが、
ともかくそういうわけです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  
こういうんじゃないよね?


この議論が王宮に次々と伝わっていって、
コーサラ国のパーセナディ王が、マッリカー王妃に声をかけました。
「修行者ゴータマが、こんなことを説いたそうだよ」。
王妃はお釈迦さまの大ファンだったので、
「世尊が説かれたなら、その通りです」と答えたところ、王様は大激怒。

「そなたは、いつもいつもゴータマが説いたことは正しいといって、彼に従う。
 おい、こら出て行け、マッリカーよ、消えうせろ」。
どう見てもヤキモチですな。


このマッリカー王妃は他のお経にも出てきくるのですが、
王さまに負けちゃいない堂々たる女性なのです。
王妃は、あるバラモンに頼んで、お釈迦さまの真意を確かめにいってもらいます。
(漢訳「中阿含経」だと、王さまに「自分で尋ねてこい」と言って
自ら行かせるそうだから、ますますカッコいいですね)


バラモンにお釈迦さまが話した内容は、こうでした。


バラモンよ、憂い、悲しみ、苦しみ、嘆き、悩みは、
愛より生じ、愛が引き起こすというようなこと、そのことは
この理由によって知るべきである。



昔、バラモンよ、じつにサーヴァッティーのある婦人の母が死んだ。
彼女は母親が死んだことから気が狂い、心が乱れて大通りを通って大通りに、
四辻を通って四辻に近づいてこういった。
『もしかしたらわたしの母を見ませんでしたか、もしかしたらわたしの母を
見ませんでしたか』と」


同様に、父や兄弟や子供が死んで狂った人の例を、お釈迦さまは挙げます。
また、引き離されそうになって無理心中した夫婦の話もします。

バラモンからこの話を聞いたマッリカー王妃は、パーセナディ王に、
「愛するからこそ、失ったら憂い、悲しみ、苦しみ、嘆き、悩みが起こる」
ということを納得させます。


================================

以上が、お経のストーリー。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
パーセナディ(波斯匿王)がお釈迦さまの教えでダイエットに成功した

という話がやたら中国で流通しているらしい。雑阿含経にあるらしい。



事実として、お釈迦さまの言うことは圧倒的に正しいと思います。
愛が5なら、失った苦しみも5。

上記の「愛=喜び」と「愛=苦」は、同じことなんですよね。
そして、時の経過で、あるいは死によって、愛する人・ものを失うことは確実です。
美味しいものを5万円分食べたら、必ずあとで5万円分の請求が来るようなもので、じゃあ請求をゼロにしたければ食べなきゃいい、
苦しみを無くしたいなら初めから何ひとつ愛さなきゃいいわけですよね


だけど、そんな人生、お断り!
仏教外の人なら、当然そう言うでしょう。
わたしの中でも、うまく着地できない部分だったのです。

今回の「愛生経」で、つらつらと自分なりに考えたりして、
自己流なので全く責任持てませんが、今の段階ではこんなふうに思います。


愛の喜びと苦はコインの裏表というか、同じものが形を変えただけ。
でもやっぱり男やら猫やら音楽やら、いろいろ愛して生きてしまいました、と。
それでも別にいいわけですよ。
お釈迦さまが怒って「教えを守らなかったから、村ごと洪水で流すぞ」
という宗教ではないですから、誰に迷惑がかかるわけでなし、
自分があとで勝手に苦しむだけの話です。


たとえば私が性懲りもなくどっぶり愛した男がいたとして、
その人が急に死んで、予定どおりの苦しみがやってきました。
お釈迦さまの教えはムダになったのか? いや、そんなことはない!


<お釈迦さまの教えを知らない「私」の想像図>
ああ、なんで彼は死んでしまったの? 
あの楽しかった日々は、どこへ行ってしまったの?
一人ではさびしい、耐えられない、
何も悪いことをしていない私や彼がこんな目に遭うなんて
もう嫌だ、何もしたくない、と半狂乱


<お釈迦さまの教えをかじった「私」の想像図>
ああ、彼はこんなに早く死んでしまった。
いつかくるものだと知ってはいたけれど、やっぱり辛い。
でも死に理由などない、理由を探すのはやめよう。
あの楽しかった日々と同じだけの苦しさが、今やってきた。
この苦しみは、愛おしさとの引き換えだ。同じものだ。
だったら仕方ない、胸をはって苦しみを引き受けようではないか。



・・・なーんて、こんなにうまくいきますかどうか。


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差別という壮大な迷妄(中部第98経「ヴァーセッタ経」)

昨日に続いて、階級(カースト)にまつわるお経で、
本日は中部第98経「ヴァーセッタ経」。


ヴァーセッタとパーラドゥヴァージャという2人のバラモン青年が、
散歩しながら「真のバラモンとはどんな人か」を議論しています。

前者は「正しい生活習慣を持ち戒めを守る人」と言い、
後者は「7代前の先祖まで家柄のことでバカにされたりしない人
(つまり先祖代々バラモンの生まれということ)」と答える。

結論が出ないので、2人はお釈迦さまに尋ねにいきます。
(2人はバラモン教なので、尊師などとは言わず
「修行者ゴータマ」とラフに呼んでいる)



お釈迦さまの答えはこうです。

==================================


「草や木を思い浮かべなさい。
それらは自分では言わないけれども、それらは生まれによる特徴がある。
じつに生まれによってたがいに異なっている。

また、うじむし、蛾、蟻に至るまで、それらは生まれによる特徴がある。
(略)
大小の四足動物を思い浮かべなさい。(略)
腹で進み、長い背中をもつ蛇を思い浮かべなさい。
(略)
しかし人間には、そのような生まれによる別々の特徴はない。
髪の毛、頭、耳、眼、口(略)脛、太腿、色、声、
これらのいずれについても、他の生き物にあるような
生まれによる別々の特徴というものはない


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ウミウシ        フラミンゴ       ヒト          ヒト


人間は身体をもってはいるけれども、それぞれに生まれによる別々の特徴はない。人間は名称によって区別されるだけである。


人間のなかで牧畜によって生活する人は農夫であってバラモンではない。
ヴァーセッタよ、このように知りなさい。
人間のなかでいろいろな技術によって生活する人は職人であってバラモンではない。
(中略)
人間のなかで祭式を実行することによって生活する人は祭官であってバラモンではない。
(中略)
なにものも所有することなく、執着のない人をわたしは本当のバラモンという。
(以下、本当のバラモンたるべき行いについて続く)


           『原始仏典 中部経典Ⅲ』(春秋社)第98経 山口務訳
==================================


草、木、昆虫、魚、鳥・・・と、ありとあらゆる形状の生物がいるなかで、
人間はみんな体毛がほとんどない2足歩行の脳が肥大した同じような動物で、
その違いは誤差に過ぎない。
ユダヤ人でもアラブ人でも日本人でもほとんど同じ、ましてや階級の違いなど
「名称によって区別されるだけである」。
お釈迦さまの視点は、ほとんど生物学者のようで、事実としか言いようがない。


日本人・中国人・韓国人なんて、傍から見ればまったく区別がつかないのに、
近親憎悪ほどねちっこいといいますか、
ネット右翼みたいなのが、中国人や韓国人をコケにして溜飲を下げたり、
「韓流贔屓だ」ってんで真顔でフジテレビを包囲したり、どんだけ暇なんでしょうか。


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                         まったく同じ生物たち

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