肉を食べると地獄に堕ちる(「楞伽経」)
ありがたい大乗仏典を斜め読みするバチ当たりな日々です。
本日は「楞伽経(りょうがきょう)」。
(『現代語訳大乗仏典5』中村元著 東京書籍)
禅宗は所依の経典がないのですが、一番大きな影響を与えたのがこの
楞伽経です(ランカーヴァータラ・スートラ。
成立は350~400年説、6~7世紀説があるとか)。
禅宗の開祖とされるインドの菩提達磨が楞伽経を重視して、
中国に行って慧可(えか)に楞伽経4巻を授けたことになっています。
(もっとも、20世紀に発見された「敦煌文書」で、
いままで言われてきた初期禅宗史がほとんどフィクションだったと
わかったそうですが・・・これについては折を見て)
重要なお経のわりに一般的知名度がないのは、
この経は現在日本ではほとんど読誦されなくなったからだそうです。
ランカーとはスリランカのランカで、
お釈迦さまがスリランカに赴いて説法した筋立てになっています。
アラヤ識と如来蔵という大事なことが書いてあるのですが、
もっとわかりやすい話として、「禅」らしい特徴、
つまり「不立文字」と「肉食禁止」は
この「楞伽経」の影響が大だったんですねー。
まずは「肉食禁止」。
以下、サンスクリット原文の和訳です(前述の本から抜粋)
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第8章 肉食
偉大なる聖者よ。勝利者のうちの雄者よ。
道を求める人々、志の偉大なる人々は教えを説くが、
かれらは酒と肉と葱とを食したり、飲んだりしてはならない。
悪臭は卑しい人々がなずみ、また悪名をまねく。
肉は、屍体を食らう悪鬼の食物であり(求道者の)食すべきものではない、
と説け。
(中略)
肉は自分の親族から生ずるものであり、(よき行いから)逸脱するものであり、
(両親の)精と血との(汚汁)から生ずるものであるから、
生類の厭い嫌悪するものであり、ヨーガ行者(yogin)は肉を離れるべきである。
種種の肉と葱と酒と韮(にら)と蒜(にんにく)とを、
ヨーガ行者は常に離れ、遠ざけるべきである。
(中略)
肉を食らう者どもは、最悪なる叫喚地獄などのなかで悪業の報いを受ける。
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ニラとニンニクもダメなの!?
すると、肉抜きのギョーザもダメだということですね。
(と思って精進料理を調べたら、本当に「香り強い野菜はダメ」と書いてありました)
以下、肉を食らうと「食肉鬼の種族に生まれる」とか
「賎民の種族に繰り返し生まれる」とか「狂乱した者として生まれる」
などなど口を極めて肉食の害が説かれます。
ここまで脅されたら、禅宗の人は怖くて肉を食べられませんね。
精進料理。
仏教=肉食禁止=精進料理というイメージを持つ人がいますが、
もともとは、僧侶が肉を食べていました。
初期仏教では労働しないで、托鉢で食事をもらっていたので、
肉をもらえば食べていたわけです。
(いまでも多くの国でハンバーガーとか普通に食べてるそうです)
ただし、食べていいのは以下の条件を満たした「浄肉」のみ。
・生き物が殺されたのを見ていない
・生き物が自分のために殺されたと聞いていない
・生き物が自分のために殺されたという疑いが起こらない
「不殺生」戒があるからで、知らなきゃいいのか?という気もしないではないですが、
「楞伽経」の作者もムシがいい話を許してくれませんでした。
「三種の浄肉など存在しない。肉はすべてダメ」と断言しています。
これについて中村先生の注釈は、
仏教の慈悲の教えというより、インドでは古来ヨーガ行者が
肉=穢れたものとして食べなかったことに由来するのでは、と書いています。
仏教以前の、肉=穢れたものという観念は、
食べ物を通して賎しい人の穢れがうつる、というカースト制度に
基づいたもので、ハンバーガー食ってるほうが仏教らしい、
みたいなことを佐々木閑先生が書いていました(新書『日々是修行』)。
ともあれ「楞伽経」を読んだ禅宗の人たちが肉食禁止にできたのは、
都市近郊の乞食生活ではなく、農村で耕作生活をしたからでしょう。
そうじゃなきゃ無理ですから。
そういえば、子供のころ比叡山延暦寺の「延暦寺会館」に泊まったことがありますが、精進料理なのに酒は出るというよくわかんない状況でした。
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大川きょう子さん、夫・大川総裁に訴訟準備(幸福の科学・離婚騒動)
<「大川きょう子」が告解する「幸福の科学」の正体>
今日発売される「週刊新潮」のタイトルです。「週刊文春」でもやっています。
「幸福の科学」の大川総裁と離婚云々でもめている
妻・きょう子さんが、いよいよ総裁を名誉毀損で訴える
訴訟の最終段階に入った、という記事であります。
この1年ぐらいで急速に夫婦仲が悪化して離婚の危機に直面した
きょう子夫人は、いまや幸福の科学で「悪魔」との扱いらしく、
ぶち切れた夫人が教団の正体をぶちまけてやる!という記事なのです。
ここ最近、「霊言シリーズ」といって、
松下幸之助からヒトラーまで、あらゆる霊が大川総裁に降りてきて、
喋りまくる書籍で教団はヒットを飛ばしています。
で、大川きょう子さんの守護霊である文殊菩薩(笑)が
大川総裁に降りてきまして(笑)、
総裁の口を借りて長男・長女に罵詈雑言を浴びせかけたと。
しかもそのDVDが、教団の全国支部に衛星配信されたんだそうです。
文殊菩薩が乗り移った総裁は、女言葉で長男に対して
「バカ息子が。あんたのおかげで離婚しそうになってるんじゃないの!」
長女に対しては
「なんか、あなた変な存在ね? 何、もう豚ヅラしてなによ。
自殺しといたほうがいいよ、もう、ほんとに」
などと発言し、
それが「文殊菩薩との対話」というDVDに記録されているそうです。
(週刊新潮の、夫人の証言)
これらに対して、夫人は名誉毀損で訴える準備をしていると。
教団としては、これは霊言であって、夫人への宗教的指導であると。
心底どうでもいいニュースではありますけれど、興味深い点もあります。
名誉毀損での損害賠償を求められた場合、もし大川総裁が
「これは私の発言でなく、妻の守護霊である文殊菩薩の発言です」
と主張した場合、司法としてはどう判断するのでしょうか?
「普通に考えて、文殊菩薩が降りてくるとかありえないので、
大川総裁が勝手に喋ってんですよね」
と裁判官・弁護士が思ったとしても、立証は難しいですよねえ。
これもいちおう「宗教的神秘」であって、立証不可能ですからねえ。
そのへんが、どう司法の場で処理されるのか、楽しみでもあります。
マンジュシュリー(文殊菩薩)。
「豚ヅラしてなによ!」とかは、たぶん言わないと思う。
でも一番名誉を毀損されたのは、文殊菩薩かも。
文殊菩薩は、個人の守護霊業務を行うほどヒマであるかどうか。
いっそ、きょう子夫人の口を借りて、原告・文殊菩薩が訴訟を起こすという
霊言と霊言の戦いを法廷で繰り広げ、世間を呆気にとらせてほしいものです。
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「空」がちょびっとわかったかも(『空と無我 仏教の言語観』)
『インド宇宙論大全』を買ったとき、著者が同じでアマゾンで出てきたので
一緒に買ってみた『空と無我 仏教の言語観』(定方晟著、講談社現代新書)。
本日、ハンパに時間が空いたので読んでみました。
いやあ、面白かった。3時間ぐらいで読めましたし。
わたくし今まで「空」がピンと来なかったのです。
それが、少しわかった気がします。
今まで『般若心経・金剛般若経』(中村元著・岩波文庫)、
『龍樹』(中村元著・岩波文庫)、『縁起と空』(松本史朗著・大蔵出版)を
読んだにもかかわらず、よくわからなかった「空」。
これらの本にもきちんと書いてあったはずですが、
機が熟さないとわからない程度の脳みそのせいで、
今日の『空と無我』でやっと時が巡ってきたようです。
(以下、素人考えで書いてて
恐ろしいコメントをいっぱいもらいそうな予感もしますが)
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まず、歴史的に見れば、”Back to 釈尊”なわけですよね?
バラモン教ではātman(アートマン)、永続する自我・魂のようなものがあるとした。
↓
お釈迦さまが「そんなものはない、そんなものに執着するのが苦しみのもとだ」
と悟って「an-ātman(無我)」を説いた。
↓
「我」という実体がないことを説くうえで、六根(眼耳鼻舌身意)や
五蘊(色受想行識)という構成要素に分解して解説した
↓
ところがお釈迦さまの死後、(定方先生曰く)”愚か者の弟子”たちが、
六根や五蘊などを恐ろしく細かく分析して、世界を構成要素に分解し、
各要素は「(恒常普遍に)ある」と考えた(説一切有部の五位七十五法)
↓
でもさ~、お釈迦さまは「ない」と言ったんじゃないの?
と考える人たちが、一連の般若経典を執筆した(紀元前後)。
「ない」ことを「空」という、より強い言葉で表現した。
↓
論争の天才・龍樹が登場し(150~250年頃)、
『中論』で「空こそお釈迦さまの真意である」として
説一切有部的な「ある」論者を徹底的にやっつけた。
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龍樹さん。伝説によると、若い頃、悪友と4人で薬で透明人間になって
ハーレムに侵入し、手当たり次第に女を犯して妊娠させ、殺されかけた。
やんちゃだなー。
定方先生は、この本のなかで、
「AはAにあらず、ゆえにAという」(金剛般若経)や、
「行くものは行かず」(中論)が何を意味するかを、
言語学・文法論からとても合理的に説明してくれます。
龍樹らが批判したのは、
つまり「言語(概念)の実体視」なのだと著者は言います。
そもそも大乗仏教の人たちが「空」とか言い出したのは、
「言葉に対する直観的な不信からであろう」と。
たとえばいま目の前に、
なんかモゴモゴ移動してる4本足の柔らかいものがいます。
世界はただそのように放り出されているだけなのですが、
生活を便利にするために人間は「言葉」という道具を発明し、
「猫」が「行く」という記号に分割して表しました。
いっぺん名前をつけると、抽象的な「猫」が抽象的な「行く」
という行為を選択する=「猫」「行く」が
独立して存在するように錯覚(実体視)してしまう。
左のが「猫」なら、全然ちがう右のが「猫」のはずはない。
(左の)猫は猫ではない、ゆえに(右のも)猫という。
「我」とか「色受想行識」についても、
名前をつけたがゆえに「ある」と思ってしまうのは、
お釈迦さまの思想と逆じゃありませんかね?
ということを言っているわけですねー。
『中論』があんなにわかりにくいのは、
言葉の限界を言葉で説明するという荒業だからなんですね。
般若経一派いわく
説一切有部=「我空法有」(我はないが、法=要素的存在はある)
般若経一派=「人法二空」(我も法も存在しない)
「無我は『法は存在する』という誤解を生む危険性を有していたが、
『空』はそれを排除した」(by定方先生)。
結局「空」とは、お釈迦さまの「諸行無常、諸法無我」と同じ、
と私は思ったのですが、その理解で合ってます?
一方で、「空」をめぐる大きな誤解の例も挙げられています。
・「空=外界に何も存在しない、すべて心・脳が生んだ幻である」という誤解
・「空=言葉で説明できない神秘的な境地である」という誤解
うん、ありがちですね、こういう誤解。
私も今まで般若経典や『中論』で煙に巻かれたように感じましたが、
今から読み直せば、その凄さがわかるかも。
ちなみに、この本『空と無我』では、
華厳経・密教への批判、唯識論への批判、神秘主義への批判も書いてあり、
膝を打つこと数十回。ですが、異様に長くなったので本日はこれまで。
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