戒・定・慧の遠い道のり(中部第79経「箭毛経Ⅱ」)
本日は中部経典第79経「箭毛経Ⅱ」(―釈尊のもとで修行する理由―)のメモ。
仏教の修行道を表す基本タームとして
「戒・定・慧(かい・じょう・え)」という言葉があります
辞書的には、行動規範の戒、精神統一の定、真理を知る慧、
などと説明されるなすが、まぁなんとも長い道のりですわ。
戒・定・慧の全体像を記したお経として、
長部第2経の「沙門果経」が有名ですが、
この「箭毛経Ⅱ」も戒・定・慧が書いてありました。
「五戒を守る僧侶の会」という超宗派の会があるんですね。
代表は真言宗の木下全雄さん。http://gokaiga.aikotoba.jp/index.html
たとえば戒について「不偸盗」とか「不妄語」とかに略すと
覚えやすいのだけれど、いまいち生身な感じがしないですよね。
でもお経に出てくる長いことばを読んで書き写すと、
たいへんに身につまされる、身に染みる・・・・。
以下は、頭に叩き込んでおきたい戒の部分の現代語訳写経です。
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生き物を害することを捨て去り、生き物を害することから離れるようになり、
棍棒や刀を置き、恥を知り、憐み深く、あらゆる生き物に対して友好的で
憐みの情をもってすごします。
与えられていないものを取ることを捨て去り、与えられていないものを
取ることから離れるようになり、与えられたものを取り、与えられるもの
だけを期待し、盗まないことによって清らかとなった心をもってすごします。
不純な生活を捨て去り、純潔の修業を行う者となり、不純な生活から遠ざかり、
卑俗なことがらである性的行為から離れます。
嘘をつくことを捨て去り、嘘をつくことから離れるようになり、真実を語り、
約束をまもり、正直で、信頼でき、世間を欺かない者となります。
中傷のことばを捨て去り、中傷のことばから離れるようになり、
こちらで聞いてはこちらの人々を仲違いさせるためにあちらで語らず(略)
このようにして仲違いした人々を和解させ、仲良くしている人々をより
いっそう仲良くさせ、和合を楽しみ、和合をもたらすことばを語る者となります。
粗暴なことばを捨て去り、粗暴なことばから離れるようになり、
やわらかく、聞きごこちの良い、愛情にあふれ、心に訴えかけ、上品で、
多くの人々に愛され、多くの人の意に沿う、そのようなことばを語る者となります。
つまらないおしゃべりを捨て去り、つまらないおしゃべりから離れるようになり、
ふさわしいときに語り、事実について語り、意義のあることについて語り、
教えについて語り、戒律について語る者となり、心にとどまり、理にかない、
区切りがあって、意義のあることばをふさわしいときに語る者となります。
(中略・・・1日1食とか、金銀を受け取らない、といった項目が並ぶ)
身体を保護するだけの衣と腹を保持するだけの施しの食べ物によって
満足するようになり、どこに行くにも、まさにそれだけをもって行くのです。
それはあたかも翼のある鳥がどこに飛んでいくにも、まさに翼だけをもって
飛んでいくようなものです。
この高貴な道徳の体系を守り、内面において非のうちどころのない
安楽を経験します。
『原始仏典 中部経典Ⅲ』(春秋社)「箭毛経Ⅱ」 林寺正俊訳
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「翼だけをもって飛んでいく鳥のように」ってかっこいい表現ですね。
全身ユニクロでいい・毎晩ガストでいい、などと言うと
つまんねぇヤツだと蔑まれる現代ですが、
身体と腹を保持するだけで別にいいじゃないですかね。
でもガストはちょっと嫌かな。
「箭毛経Ⅱ」では、お釈迦さまがジャイナ教徒のサクルダーインに、
戒・定・慧の修行体系を懇切丁寧に説きます。
ところが最後、サクルダーインがお釈迦さまに帰依しようとすると、
取り巻きが「ゴータマの弟子になるなんてとんでもない!
おやめください」と猛反対。
「このようにして、遊行者サクルダーインの集団は、
かれが尊師のもとで清らかな修行を行うのをさまたげた」で、
お経はブツッと終わってしまいます。
え~っ、お釈迦さまにあれだけ延々と説明させといてオチがそれ?
と拍子抜けですが、こういう無愛想な終わり方も味わい深いものです。
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