人は「無常」に耐えられるのか(華厳経2)
『華厳経』の続きです。
「法華経」はスケールが巨大で出てくる数も幾万億とかなのに対して、
「華厳経」は極小=極大、「毛の先端や微塵の中に全宇宙がある」
という表現が頻出します。
これはこれで、魅力的な世界観だなという印象でした。
「華厳経」のなかで日本仏教に大いなる影響を与え、
今でも東大寺で毎月15日に読誦されているというのが
般若三蔵訳40巻本の末尾の偈「普賢菩薩行願賛」だそうです。
そのなかに、「仏教史における驚くべき転換」(by中村元先生)
という偈があります。
以下は、『現代語訳大乗仏典5巻』(東京書籍、中村元著)からの抜粋です。
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【漢文書き下し文】
諸仏にして若し涅槃を示さんと欲せば、我は悉く(ことごとく)
至誠(しじょう)にして勧請(かんじょう)したてまつる。
唯だ(ただ)願わくは久しく、刹(くに)の塵(じん)ほどの
<多くの>劫のあいだ<この世に>住まりて(とどまりて)、
一切の諸の衆生を利楽(りらく)したまわんことを。
【サンスクリット原文和訳】
やすらぎの境地を示そうとなさる仏さまがたに、
私は合掌して懇願したてまつるーー
この世のすべての人々の幸せと安楽のために、国土の微塵の数に
等しい<無数に多くの>劫のあいだ、この世に<久しく>とどまりたまえ、と。
【中村元先生の解説】
これは、仏教史における驚くべき転換です。
もともとニルヴァーナを求め、ニルヴァーナに入った人がブッダなのです。
ところがいまここでは、ニルヴァーナに入らないでくださいと
いうのですから、正反対になったわけです。
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「仏さま、私たちを置いていかないで!ずっとそばにいて!」
という絶叫が聞こえそうではありませんか。
この偈の解釈も、涅槃の定義も、いろいろ議論はあるのでしょう。
でも大づかみに言って、
やっぱり人間は「永遠」とか「常住」という概念なしには
不安で生きられないのかなあ、と思うわけです。
例えば「法華経」の「如来寿量品」でも、
「お釈迦さまは、本当は、ほぼ永遠の久遠仏なのだけど、
死んだふりをしたのです。だって、死んだふりをしないと、
如来のありがたみを忘れちゃうでしょう?」という
史上最大のドッキリカメラのような物語となっていますよね。
お釈迦さまが実在の人物なら普通に死ぬだろうと思いますが。
「すべては無常である、何ひとつ永続するものはない」というような
一見頼りない世界観に耐えられるほど、人間は強くないのでしょうか。
とするとですね、仏教の長い長い歴史というのは、
お釈迦さまが発見した「すべては無常」という理法が、
やっぱり人々に受容されないと証明された歴史ではないのか?
という凶悪な疑念が沸いてしまうのですが・・・。
どうなのでしょうか?
そのへんのところ、今の仏教学では、どう教えてらっしゃるのかしら?
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