世界は永遠でも有限でもどうでもいい(長阿含28経 布た婆楼経) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

世界は永遠でも有限でもどうでもいい(長阿含28経 布た婆楼経)

仏教解説書を読むと、お釈迦さまは形而上的問題のなかで
悟りの役に立たないことに興味はなくて

「無記」=判断しなかった、とよく書かれています。

お経のどこに出てくるんだっけ?と思っていたら、長阿含28経の
「布た婆楼経」(ふたばろう経。漢字が出ない)で遭遇しました。


お釈迦さまは、ふたばろう(パーリ語でポーッタパーダ)というバラモンと話をしています。
ポーッタパーダが、「我と世界は永遠に続くのか、有限か無限か
「如来には終わりがあるのか、ないのか」といった話題を出したところ、
お釈迦さまは
私は何も述べない」と言いました。

理由は「これらは正しい意味に合致せず、理法に適わず、清らな行いに反し、
無為に反し、寂滅に反し、止息に反し、正しい覚りに反し、
沙門のあり方に反し、涅槃に反しているからである。
このようなわけで何も述べないのです
」。


一方で、「四諦については論じる」。
なぜなら、「四諦は正しい意味に合致し、理法に適い(~以下つづく~)」
つまり悟りへの道に通じる話であると。


よく言われるように、ここが仏教と、科学や哲学との違いですよね。
仏教は、世界を分析・記述したいわけではなく、
あくまで「苦を乗りこえ悟りに至る」という実践に役立たなければ意味がない。


あと、ちょっと面白かったのは、このお経で、
お釈迦さまが喩えにわざわざ下ネタを使ってるんですよ。


「ある沙門、バラモンは、一つの世界がすべて楽であると説く。
(パーリ本だと<アートマンは死後完全に幸せであり病がない、
 という見解を持つ者がいる>」
では、そんな世界を知ってるのか?見たのか?と聞くと、
「知りもしないし、見てもいない」と言う。つまりそんな世界はない。


ここで喩えとして、お釈迦さまはこう言います。
たとえばある人が、『私はあの美しい女性と交わって、その
淫らな女性をほめたたえる』と言うとしよう。
他の人が、その女性の住んでいる場所、姓名を知っているか、
背が高いのか、肌がきめ細かいのか、色が白いのか、を尋ねたら
『知らない』と答える。これは真実か
?」


「こんないい女とヤッたぜ」という男の武勇伝に、各論を聞いたらあやふやで、
「お前の妄想じゃねーか」とバレるようなものだ、というわけです。


欲望を滅し尽くしたお釈迦さまが、わざわざそんな下世話な喩えを・・・・。
人に何かを説明したり、聴衆の前でトークをするときに、
ちょっと下ネタを触って場を盛り上げることがありますよね?
お釈迦さまも、そういうサービス精神があるお茶目な人だったのかしら。


(一説によると、古代インド人は露骨な性的表現を平気でする人たちで、
 経典を中国語に訳すときに削除された表現も結構あるらしいですね)



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