ヨベルの年 | 新教会牧師書斎の窓

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新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

この五十年目はあなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木のぶどうを集めてはならない。レビ記25:11

 

「ヨベル」という語をごぞんじですか?

原語のヘブライ語の言葉の意味は、雄羊、あるいは雄羊の角のラッパです。また、最近では特定の記念日、25年、40年、50年、60年そして70年等の記念日を表します。他には原語の雄羊のラッパから、喜ばしい歌、あるいは歓びの爆発が意味されます。また「ヨベルの負債」には国家規模の借金帳消が意味されます。2020年のコロナ感染による不況対策としても期待されているとか。

そして、ユダヤ教・キリスト教関係の文書の中で、聖書の正典に加えられなかった文書に、ヨベル書があります。これは小創世記とも呼ばれ、創世記の初めからヨベルの年までが記されています。ざっと読むと、人による発想を感じ、人が作ったものとしか思えません。もちろん、現代のキリスト教会でも外典とされています。

 

しかし、「ヨベルの年」という言葉は、レビ記25章や民数記36:3にあらわれ、天界の教義にもでてきます。

レビ記の文字上の意味を追うと、7年ごとの安息年の規則が定められ、その中の7年を7倍した年、49年目の翌年の五十年目が「ヨベルの年」と名付けられています。50年目のこの年は聖別されて、解放を宣言し、自分の所有地と家族のもとに帰るよう求められています。また種を蒔くこと、自然に育ったものを刈り入れること、また手入れをしなかった木のぶどうの実を集めることが禁じられます。

ということは、それ以外の年はこれらの行為が許されていることとなります。

また土地売買のときは互いに害を与えないことも定められています。しかし、それ以外の年は害を与えてもよいのかと、様々な疑問がわきます。

 

もちろん、みことばの内的意味は、見かけの文字上の意味とは大きく離れています。何を意味しているのか、天界の教えに尋ねましょう。

畑に種をまくとは、「教会の信仰に属する真理や善を教え学ぶことを」意味し、産出するとは、そこから得る真理の善を意味します(天界の秘義9272—3)

ヨベルの年以前には、教会の信仰に属する真理や善を教え学ぶことが許され、そして得た真理を行うことを善として、その実を得ます。

しかし、ヨベルの年にはこれが禁じられます。ヨベルの年以前のほうが、私たちにはあるべき姿のように感じます。

 

私たちは教会の真理を学び、そこから得た真理を行うことで善に変え、その実を刈り入れます。なぜなら、私たちは何が真で、何が善か、全く知らず、信仰の善を得る方法も知らないからです。深い闇にいるため、自分のすきなものだけを考え、自分の愛するものだけを行おうとしがちです。

 

例えば、自分のできることは限られており、やれることだけやればいい、と考えるかもしれません。何もしないより、何かしたほうがいいと思いますし、それ以外の選択肢がないかもしれません。しかし何かをやったとしても、往々にしてそれは、自分の独りよがりに終始して、実は自分のこだわりに従っているだけかもしれません。人のためにと考えますが、客観的に見れば自分のために行っていることに気づき、はっとします。また「真理」を考え違いしているかもしれません。それは頭の中だけで真理と考えた事が、実は全く人に役立たず、自己満足で終わっているのかもしれないのです。

 

自分は真理から善をしていると考えても、それは抽象的な真理であり、その善は「余計なお節介」かもしれません。概念的な真理は、真理ではなく、頭の中だけのものです。知識を学ぶことはできますが知識を学んでも、真理に行き着くのは簡単ではありません。真理を知っていると言いますが、それは知識にすぎない状態です。隣人に善を行うといいますが、隣人とは何か?善とは何か?最初のうちは暗中模索です。

 

そのため、「仁愛の始めは、悪を取り除くこと」(真のキリスト教435)と明らかに示されています。自分自身の力では、決して悪から清められず」(〃438)本人は他人へ善を行ったつもりでも、悪が必ず混じり込んでいます。見かけは人に対する善のように見えても、実は自分のために行っています。これはよく反省して、本当の自分の目的を見つけることではっきりします。いわゆる自己点検と言われる作業です。ここで自分からでは善を行う事はできない、と気づくことができれば、それは最初の「悟り」です。この悟りも一度や二度の気づくきだけではなく、何度も何度も気づかなければ本物にはなりません。

 

真理を学び、知的に理解した上で実行して善を行おうとする過程は、自己改革や改心と日本語に訳され、悔い改めと再生の間にある過程です。自分自身の思考という形を変えて、自分の心を作り直す過程ですが、作り直す素材自体が元の素材と同じであるため、すぐには形を変えることができず、簡単ではありません。人によるのでしょうが、私たち凡人にはおそらくある程度の時間を必要とします。みことばでも七日の内、六日間働きなさいとありますが、主観的にもこの労働の六日間はつらく長い時間です。

それは、本来自分が好きでないことを、無理やり行うためです。自分が好きなことを行っていると、時間が経つのは気になりませんが、いやなことを無理にやっていると、永く感じ、いつ終わるのかとだけ考えます。感染症の自粛期間や、無理に命じられた残業、しかたなくやっている他人の介護のようなものです。こうあればいいという理想の形に合わせて、自分自身を矯正し、変えてゆきます。

 

この永くつらい作業が終了したことを告げるのが、ヨベルの年であり、ヨベルの年が来たことを告げる歓びのラッパ・角笛です。

「第七の月の十日に角笛を鳴り響かせる。宥めの日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせる。」

今までの永い労働は終わりました。六日間の労働が終わり、後は楽しい日、休日が待っています。

もう無理に働かなくてもいいのです。永遠の第七日を永久に楽しむ日がやってきました。全土に角笛を響かせたい気持です。自分の心の形が変わって、今まではつらい労働とだけ考えていたものが、楽しく喜ばしい趣味、時間さえあればついつい夢中になって没頭してしまう作業に変わります。作業の内容と労働の内容には変化はないのですが・・「石の上にも三年」冷たい石の上に座っても何年かたてば、温かく思えてきます。渋々やっていた介護も、相手の歓ぶ顔が見たくて、楽しい時間に変わります。

 

人生には四つの段階があるといいます。

最初は、他人の教えに従って行います。次は、知性によって自分を抑えて、自ら行います。第三は、知性の中で自発的に行いますが、まだ知性に自らを合わせています。第四は、自分の確信から、そして意志から行います。(〃443)

PRIMA est, in qua agit ex aliis secundum instructiones:

SECUNDA est, in qua agit ex se moderante intellectu:

TERTIA est, in qua Voluntas agit in Intellectum, et Intellectus modificat illam:

QUARTA est, in qua agit ex confirmato et ex proposito.

孔子の至った境地に、「70歳となり、心の欲する所に従えども、矩を踰えず」(論語為政第二の四)という言葉が伝わっています。この矩とは、金属で作った定規です。歓んで行っているかどうかは伝わりませんが、少なくとも第三以降の段階です。

 

自分ではなく、主から善を行うという境地も同じで、ここに至って初めて本物の善行といえます。私心を挟まずに行うことができるからです。そこでは自分の歓びは、主の歓びとなりつつあり、はじめて主の御心を行っていることとなります。無理やり行うのではないからです。その時、人は主のかたちとなり、進んで行うなら主の似姿となります。

 

無理やり行うかどうかが、転回点となります。「心を入れ替えて生まれ変わったつもりでやります」と人前で反省の弁を述べる方がいらっしゃいますが、本当に心の底から歓んで行うことができたなら、それは天界に天使として生まれ変わったのと同じです。

 

その時は、「種をまかず、自然に育ったものを刈り入れず、また手入れをしなかった木のぶどうの実を集めない」ヨベルの年の状態となります。信仰のため苦労して真理を学ばなくても、隣人にとっての善しか念頭にありませんので、苦労して真理を学び、学んだものに無理やり自分を合わせることはありません。

自然に生えてきたものを収穫する必要は無く、それは意図して生えてきます。また霊的な状態を表すぶどうの木は、手入れしなくても、整然と育ちます。

 

ヨベルの年には、本来主の持ちものであるみことばの神的真理は、本人の持ち物となるため「信仰の諸真理と善を知り、他の誰よりも天界の生活を送って主と結合するため(天界の秘義8768)」、自分の持ち物や家族のところに帰ってよい事になります。

 

また、教義の誤りによって、「互いに害を与えることはありません」(天界の秘義9196)。

教義はこうだ、真理はこうだ、と主張することで、本末転倒してしまうことがありません。

教義・真理を述べて仁愛をおろそかにすることは、本末転倒の最たるものです。ましてや仁愛を忘れはてて、翻訳の些細なことにこだわることは、周りにとって「害を与える」以外の何物でもありません。

 

「その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。」(ルカ17:31)と主は警告されていらっしゃいます。

「屋上にいるとは、人が善の状態にあることを意味し、家にあるものを持ち出すために下に降りる、とは以前の状態に帰ることを意味します」(天界の秘義10184-2)。

 

ヨベルの年の大転換点に至れば、それ以前の状態に戻って教義や真理を云々する必要は全くありません。逆にそれは他人を巻き込んで、大きな迷惑となります。売買は知識を獲得して他人に伝える(黙示録解説830参照)であるからです。

「同胞に土地を売ったり同胞から買ったりするときは、互いに損失を与えないようにしなさい。」教義や知識にこだわることで、隣人を悩ませてはなりません。

 

そのためこの転回点は、新しい状態を迎えた人にとって、角笛を吹き渡らせる、喜ばしく、幸福な状態です。そのとき、人は労働から解放されます。

「再生中の最初の状態は、真理によって善に導かれ、第二の状態は善によって導かれます。そして後の状態にいるなら、秩序は逆転して、その時主によって導かれ、従って彼は天界にいて、平安の静けさのうちにきます」(天界の秘義9274-2)

 

もし私たちが、世にいるうちに最初の状態を始めることができるなら、肉体の死後、第二の状態に至ることができます。(真のキリスト教571-2)

そして、これをさらに進めて、生涯、神を怖れて、掟を守ることができるなら、

「地は実りをもたらし、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができます」 (レビ記25:17-19)アーメン

 

 

 

【新改訳2017】

レビ記

25:8 あなたは安息の年を七回、すなわち、七年の七倍を数える。安息の年が七回で四十九年である。

25:9 あなたはその第七の月の十日に角笛を鳴り響かせる。宥めの日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせる。

25:10 あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。

25:11 この五十年目はあなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木のぶどうを集めてはならない。

25:12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは野の収穫物を食べる。

25:13 このヨベルの年には、あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰る。

25:14 もしあなたがたが、同胞に土地を売ったり同胞から買ったりするときは、互いに損失を与えないようにしなさい。

25:15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの同胞から買い、収穫年数にしたがって相手もあなたに売る。

25:16 年数が多ければ、それに応じてあなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じてその買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。

25:17 あなたがたはそれぞれ同胞に損失を与えてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしはあなたがたの神、【主】だからである。

25:18 あなたがたはわたしの掟を行い、わたしの定めを守らなければならない。それを行うなら、その地に安らかに住むことができる。

25:19 地は実りをもたらし、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。

 

新改訳2017

ルカ

17:28 また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、

17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こります。

17:31 その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。

17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。

 

天界の秘義9274-1

「七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。これは第二の状態に入ったことを意味します、その時教会の人間は善にいるため、平安の静けさの内にいる、というのは七年目の意味あるいは安息日が、人が善にいて、そして主が善によって導くとき(参考 8505, 8510, 8890, 8893)、そして「土地を休ませる」すなわち種まきをせず、が以前のように真理によって導かれないこと、「そのままにしておく」が平安の静けさにある、ということから明かです。(安息日が結合して平安の状態にあることは8494参照)というのは、その、土地を耕さず、そのまま休ませることは、安息と静けさ、そして平安を意味し、それは主からくる善にいる者がもっているものだからです。(再生しつつあり、教会になりつつある者には二つの状態があり、最初は信仰の真理によって仁愛の善に導かれ、第二は仁愛の善にいることについては7923, 7992, 8505, 8506, 8512, 8513, 8516, 8539, 8643, 8648, 8658, 8685, 8690, 8701, 8772, 9139, 9224, 9227, 9230参考.)