山陽新報(山陽新聞の前身)が明治、大正期に発行した号外5部が、

 

岡山県勝田郡勝央町岡の遠藤昌澄さん方で見つかりました。日露戦

 

争の講和会議や明治天皇崩御といったいずれも歴史的出来事を報じ

 

る内容です。郷土史料に詳しい岡山市立中央図書館の飯島章仁学芸

 

員は「先の大戦による戦災などで明治、大正期の新聞自体あまり残

 

っていない。発行数の少ない号外はさらに珍しく貴重」と話してい

 

ます。

(この記事は2024年4月17日の【山陽新聞社会面】からの紹介です)

 

最も古い記事は1905(明治38)年8月24日付で、日露戦争終結に向

 

けた講和会議の速報。米ポーツマスで行われた講和会議では日本が戦

 

闘に勝利しながらも賠償金獲得やサハリン(樺太)北半分の割譲を断

 

念する結果となったが、号外は「両國の固執」と見出しを付け、賠償

 

金などを巡って紛糾する日露交渉の経過を伝えています。9月7日付で

 

は講和内容に不満を募らせた民衆が東京で起こした日比谷焼き討ち事

 

件を受け、「一切の言論集會を緊束したり」と政府が発した戒厳令を

 

報じています。

 

明治天皇崩御を伝える12(明治45)年7月30日付は「天皇登遐(天に

 

昇るの意味)との見出しで崩御の日時や最期の容態を死因,医師団の

 

名とともに掲載。同年(大正元年)8月6日付で葬儀の内容や日時の決

 

定を知らせています。日付不明ながら第1次世界大戦中の1914年(大正

 

3年)に日本がドイツの東アジア拠点だった中国・青島を攻略したことを

 

伝える紙面もあります。

 

号外は、遠藤さんが約20年前、奈義町の曽祖父力雄さん宅で発見し、フ

 

ァイルにとじて保管していた。(中略)

 

いずれの号外も現在は山陽新聞社に残っておらず、遠藤さんが同社に寄

 

贈しました。