伝通院からのパレードが板橋に向かってスタートし、全行程は無理と巣

 

鴨地蔵通り入口近くの食事処に入った孫とお爺ですが、奥さんが料理で、

 

御主人がお運びをして居ました。

その主人が、高1の孫に「お兄ちゃんは若いから、こんな時計が、時間が

 

違ってきたのだけど、時間とか合わせて貰えないかな」と、デジタルの腕

 

時計を持ってきました。たまたま、孫がしている時計と同一で色違いで、

 

難なく調整してあげたんですが、その時袖賞を見た主人が「岡山から来た

 

の?岡山新選組と書いてあるけど」と。そうなれば私の出番到来です。


元々東京住まいが、第二次世界大戦で疎開し、そのまま岡山に住んでる

 

けど、実は岡山って新選組とは縁が深く、隊士も20数名輩出しているし、

 

八重の養女や新島襄も岡山県内に住んだ事も有り、歴史上欠かせない

 

重要ポイント、と説明し、気候、果実、コメ、魚類など恵まれて居ると、岡山

 

自慢も…。まあ、天ぷら定食も美味で機嫌も上々でした。

ところが、離れた席で食事を終えたご婦人が、席を立って近くの空き席に

 

来て、「懐かしかったのでゴメンナサイ。実は私も岡山県生まれなので…」

 

と、話に加わって来ました。この辺りが下町の良さと言うか。何とその女性

 

が「岡山と言っても県北の新見なんだけど」と。今度はこっちが驚いたので

 

す。

新見は疎開で移って、1968年まで住んだ若かりし頃の思い出が有る街。

 

年齢も近そうな感じでその辺の話しに成ったところ、何と私と同級生の妹が

 

居る。名前は? ああ背の高い、バレーボールをしてた? 何と同じ学校の

 

同級生のお姉さんと判明しました。食堂の親父も含めて、みんなでこんな偶

然ってあるんだネ。と言う結末でした。何かホントに鳥肌立っちゃいました。


10日余り経過した27日、その同級生の彼女に電話しました。家政科の生

 

徒だったので、接点はほぼ皆無とはいえ、共通の知った子も居れば、先生

 

の話とかも話が弾んで、気付けば1時間半近くも話し込んで仕舞いました。

 

でも、この年齢に成ると、亡くなった友人の話とかも多くなり、元気で居られ

 

ることの幸せを感じた時間でした。


さて、巣鴨で食事を済ませた孫との二人ですが、地蔵通り入口の陸橋に上が

 

って南を見るも、未だ「誠」の隊旗の影も無く、商店街を散策しながら、パレー

 

ドの到着を、今や遅しと待ち続けますが。食後20分位の頃に成って、やっとパ

 

レードの一隊が到着し、入口のちょっとした空き地と言うか、休憩スペースで一

 

旦解散し、食後に再スタートと成りました。まあ、こっちは既に食後なので、辺り

 

を散策して待つことに成りますが。

     パレードの方は全く進みませんでしたが、その④に続きます。