昨日の更新で、関連が有るからと一緒に書く積りでしたが、時間的に無理だったので繰り越し
ました。
実は1200戸余りの町内会でお世話役をしていますが、本夕が総会でその準備も有ったりして
います。
そんな中ですが4月10日の新聞の記事からです。カルチャーページの記事ですが、新政府が
會津藩の処分について、寛容な対応をした文書が発見されました。過酷な処分を受けた印象
の強い會津藩ですが、新政府が意外に寛容だったことがうかがえる資料です。
文書の一つは、會津若松城の落城から5か月後の1969(明治2)年2月、新政府の軍務官副
知事として、軍事部門を統括していた、元長州藩士・大村益次郎が、會津の状況を知らせてき
た側近に返した手紙です。去年に成って、照姫のことが「若狭伯母」という表記で書かれている
ことが判明しました。
照姫は1か月に及ぶ籠城戦で、山本(新島)八重ら家臣の家族の女性たちを指揮して、負傷者
の看護などにあたったとされて居ます。敗戦後は江戸の紀州藩邸に護送され、後に実家に帰
されました。
大村益次郎は、照姫の護送の準備を進めるよう、側近に手紙で支持して居ますが、容保の嫡
子を懐妊していた側室2人に就いては、出産まで會津に滞在させるように指示し、出産後も「相
当の手当てを出すべきだろう」と記されており、朝敵となった容保の嫡子の誕生にも配慮してい
たことが判ります。
「會津戊辰戦史」によれば、この後側室2人は相次いで男児と女児を出産しています。男児は
後に松平家を再興することになる容大(かたはる)で、手紙の指示が徹底されたことが確認出
来ると記事は伝えています。
また、今年都内で発見された冊子「巷説談」では、照姫の護送に随行した40人の役職と名前
が確認されたと記事は伝えて居ます。巷説談とは、当時の風聞などの情報をまとめ、幕末に
大量に発行された冊子で、今回見つかった冊子は、諸藩から新政府に提出された公文書の写
しが流出したのではと、両資料を発見した岩下哲典・明海大教授(幕末史)は言っていたようで
す。これによると護送時期は1869(明治2)年2~3月に行はれ、医師2人を含む護衛役など
18人、奥女中22人と、随行が手厚く認められていたことが判明しました。奥女中の中には、八
重の友人で、後に元新選組の斎藤一と結婚した時尾(明尾)名も含まれていたそうです。また
先代藩主容敬(かたたか)の側室とその使用人ら計18人も後に合流していたそうです。
前出・岩下教授も「これだけ多人数の護送には、多くの紀州藩兵が割かれたはず。医師が2人
も随行していることからも、敗軍に対する扱いとしては破格と言える」とコメントしています。
會津藩は23万石を3万石に削られ、青森県・斗南藩に転封されていますが、岩下教授は「朝
敵とはいえ、私欲の為に抵抗したわけではないとして、大村は元々會津藩に同情的だった。
実際に寛大な処分を指示したことがうかがえる貴重な資料だ」と話しておられたそうです。
ました。
実は1200戸余りの町内会でお世話役をしていますが、本夕が総会でその準備も有ったりして
います。
そんな中ですが4月10日の新聞の記事からです。カルチャーページの記事ですが、新政府が
會津藩の処分について、寛容な対応をした文書が発見されました。過酷な処分を受けた印象
の強い會津藩ですが、新政府が意外に寛容だったことがうかがえる資料です。
文書の一つは、會津若松城の落城から5か月後の1969(明治2)年2月、新政府の軍務官副
知事として、軍事部門を統括していた、元長州藩士・大村益次郎が、會津の状況を知らせてき
た側近に返した手紙です。去年に成って、照姫のことが「若狭伯母」という表記で書かれている
ことが判明しました。
照姫は1か月に及ぶ籠城戦で、山本(新島)八重ら家臣の家族の女性たちを指揮して、負傷者
の看護などにあたったとされて居ます。敗戦後は江戸の紀州藩邸に護送され、後に実家に帰
されました。
大村益次郎は、照姫の護送の準備を進めるよう、側近に手紙で支持して居ますが、容保の嫡
子を懐妊していた側室2人に就いては、出産まで會津に滞在させるように指示し、出産後も「相
当の手当てを出すべきだろう」と記されており、朝敵となった容保の嫡子の誕生にも配慮してい
たことが判ります。
「會津戊辰戦史」によれば、この後側室2人は相次いで男児と女児を出産しています。男児は
後に松平家を再興することになる容大(かたはる)で、手紙の指示が徹底されたことが確認出
来ると記事は伝えています。
また、今年都内で発見された冊子「巷説談」では、照姫の護送に随行した40人の役職と名前
が確認されたと記事は伝えて居ます。巷説談とは、当時の風聞などの情報をまとめ、幕末に
大量に発行された冊子で、今回見つかった冊子は、諸藩から新政府に提出された公文書の写
しが流出したのではと、両資料を発見した岩下哲典・明海大教授(幕末史)は言っていたようで
す。これによると護送時期は1869(明治2)年2~3月に行はれ、医師2人を含む護衛役など
18人、奥女中22人と、随行が手厚く認められていたことが判明しました。奥女中の中には、八
重の友人で、後に元新選組の斎藤一と結婚した時尾(明尾)名も含まれていたそうです。また
先代藩主容敬(かたたか)の側室とその使用人ら計18人も後に合流していたそうです。
前出・岩下教授も「これだけ多人数の護送には、多くの紀州藩兵が割かれたはず。医師が2人
も随行していることからも、敗軍に対する扱いとしては破格と言える」とコメントしています。
會津藩は23万石を3万石に削られ、青森県・斗南藩に転封されていますが、岩下教授は「朝
敵とはいえ、私欲の為に抵抗したわけではないとして、大村は元々會津藩に同情的だった。
実際に寛大な処分を指示したことがうかがえる貴重な資料だ」と話しておられたそうです。