夕方の渋谷駅山手線ホーム。サラリーマンや若者がごった返す時間と場所。その混雑ぶりはうんざりするほど。そんなある日のことだった。
混雑するホームの中でギャルが無理やりスマホをいじっていた。こういう光景を見ると、たいていの常識ある大人たちは眉をしかめる。そうした状況の中、電車に乗ろうと皆がいっせいに動き始めても、まだスマホをいじり続けるギャル。その時、ある中年オヤジの顔にスマホがぶつかった。
普通ならここで「すみません」と言うものだが、ギャルが思わず発した言葉は「ちっ」…。その途端、オヤジがブチ切れた。
「人の顔にスマホをぶつけといて何舌打ちしてやがる!」
そりゃ切れるってもんだ。
「そもそもこんな混雑してる所でスマホをいじりながら電車に乗ろうなんて非常識だ!」
もっともな意見だ。周囲の人たちも混雑の中でのスマホ操作を忌々しく思っていただけに、「そうだそうだ」という顔つきだった。車内で怒鳴るオヤジの声はうるさかったが、この非常識なギャルに対し「もっと言ってやれ」という感じの方が強かった。しかし…
「てめえみたいなバカ女は電車に轢かれて死んじまえ! 猿みたいなブス顔しやがって、偉そうに舌打ちなんかしてんじゃねえよ!」
おいおい…オヤジ切れすぎ…。確かにあの場面で「ちっ」なんて言われれば頭にくるのは分かる。でも、そのくらいで勘弁してやれよ。
ギャルは一切言葉を発しない。オヤジの怒りに圧倒されているのかもしれない。それをいいことにオヤジの暴言はますますエスカレートしていった。
「死ねよ! 早くこのホームから飛び降りて死ね! この猿女!」
周囲の見る目が、ギャルへの同情に変わって行くのがよく分かった。オヤジの言い過ぎが、正義という立場を逆転させてしまったのである。
これはある意味、行き過ぎた正当防衛という形か? 暴言さえなければ、正義はずっとオヤジにあったのに…。
* * * * *
以前、やはり山手線の車内で似たようなトラブルがあった。原宿駅から、中学1年生くらいだとすぐ分かる小柄で幼顔の男子生徒が数人乗り込んできた。会話からして、おそらく地方から来たのだろう。初めての原宿を堪能して、えらくハシャギまくっていた。
しょうがない中坊共だなと思っていたが、私もそのような年頃の時は同じことをしていたので、気持ちは分からなくもなかった。しかし、その状況に我慢ならないというオヤジが私の隣に立っていた。
「てめえら、いい加減にしろ! 電車の中で騒ぐもんじゃないだろ!」
オヤジの一喝におとなしくなる男子中学生軍団。周囲の乗客は「よくぞ注意した」という感じで見ていた。しかし、オヤジの正義はここまでだった。
「てめえらには常識ってもんがないのか! 親はどんな教育してきたんだ!」
ビビったのか中学生軍団は何も言えずにいた。おそらくこの時点で反省はしていたと思われる。しかし、オヤジは何故か怒りがエスカレートしていった。たぶん自分の立場が強いと悟り調子に乗ったのだと思われる。会社で弱い立場にある男が、家では妻や子供に威張り散らすDV夫と一緒だ。
「分かってんのか、クソガキが!」
そう怒鳴ると、一番近くにいた中坊の髪を掴むと強く突いたのである。殴ったわけではない。押し倒すくらいの勢いで頭を突いたのだ。よろけて、ますますビビリまくる中坊。抵抗されないのをいいことに、調子に乗ったオヤジは、またしても頭を強く突く。男子だから我慢しているが、女子の中坊だったら絶対泣いている。
それにしても、いくら殴っていないとはいえ、これはやり過ぎだ。周囲の目もオヤジの方を暴力の権化として見ていた。そして、中坊に同情し始めていた。
オヤジが三回目の蛮行を働こうとして手を上げた時、隣にいた私は無意識にオヤジの手首を掴んでいた。
「もういいじゃないですか。反省してるみたいだし」
そう言うと、オヤジは忌々しそうな顔をして私を睨み、ゆっくり腕を下ろしてくれた。あっさり引き下がってくれてホッとした。こっちがとばっちり喰ったら嫌だからね。
オヤジは、注意もしくは怒鳴るだけなら正義の立場だったのに、抵抗しない中坊に一方的に手を出したがため立場が一転してしまった。殴ってないとはいえ、やはり手を出すのは良くない。
* * * * *
両パターンとも行き過ぎが招いた末の“立場の逆転”だった。こういう状況は電車内だけではない。学校や職場でも有り得ることだ。普段、正義の旗を振ることがない人ほど、たまに正義を振りかざすと暴走してしまうことがある。マスク警察やSNSでの誹謗中傷もそれにあたる。
人は正義という大義名分の下に、時に残虐化してしまう…。未だ原爆投下を正当化する元米兵の言い分も同じだ。民間人への残虐な大量殺戮など、正義の理由付けにはならないのに。
とにもかくにも、「怒る」あるいは「注意する」という行為は難しい…。くれぐれもやり過ぎには注意すべきだし、反省している人をとことん追い詰めるようなことはしてはならない。
<余談>
渋谷のギャルとオヤジは、見かねた駅員が二人を車内からホームに引きずり出した。その後どうなったのかは不明。
原宿での私の行為は真の正義に基づくものではない。オヤジが私より小さく非力な感じだったので止めることができたのだ。これがガラの悪いヤンキーだったり、ガタイがデカかったりしたら止める勇気はなかったと思う。とりあえず、地方の中坊が、東京は怖い所だと思ってくれなかったのなら幸いだ。