自我とは部分関数である

 

苫米地理論における自我の定義

 

自我とは宇宙の中から自分を定義する部分関数である。

 

宇宙に自我という関数を入力すれば私が出力されるということです。

 

これと同じ表現をして例えるなら自然数における偶数という概念があります。

自然数に偶数という関数を入力すれば(2,4,6,8,10・・・)が出力されるのと同じです。

 

では、自我という部分関数の中身とはなんなのか?

 

それは私にとっての重要性で並べられた情報のことです。

 

私は東京に住んでいて、親はだれだれで、兄弟は何人で、趣味は何で、どこどこの学校出身で、仕事は何でなど、私を定義する情報のネットワークを自分にとって重要な順番に並べ替えます。

 

そして例えば、読書が趣味で、読書という情報のネットワークもまた多数存在し、そのネットワークは無限に広がっていきます。

 

その無限のネットワークの中で、自分にとって重要な順番に並べられた情報の中心点が自我ということになるのです。

 

自我の説明を試みた時に、自分にとって重要な情報をあげることはできますが、自我自体の説明をすることができるでしょうか。

 

ここで、”人間”という概念を見てみる。

「人間とは何か?」

―という問いに対する答えが、「宇宙を入力して全ての”人間”を出力する部分関数」なのだそうだ。 

 

これが”人間”という概念の定義である。

 

 

この場合、宇宙とは”全ての要素”というほどの意味です。

 

 

仮に、「人間」の部分を「太郎」さんに置き換えてみる。

宇宙を入力して、「太郎001」「太郎002」「太郎003」のように

M78星雲にウルトラマン「タロウ」がいれば、それも含め、宇宙中のすべての「太郎」さんが出力される部分関数―それが「太郎」さんの定義である。

 

ここで、”自我”とは、自分を定義するもの。

”自我”という部分関数に、宇宙を入力すると、

すべての自分の属性、自分を構成する要素が出力される。

これが「自我とは部分関数である」ということです。

 

 

自分を構成するすべての要素。

当然、これは自分にとって「重要度」が高い、

慣れ親しんだものであり、それが”自我”を作り上げている。

 

何が重要かは、人それぞれ。

 

全て関係性で成り立っている物

 

それが自我である。