三笠宮寛仁親王殿下御手植?、奉賛会総裁竹田様御夫妻御手植 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

 

下関市綾羅木の中山神社。

拝殿向かって左手に、拝殿に向かう形で建てられている、

「三笠宮寛仁親王殿下御手植」の碑と、

「奉賛会総裁竹田様御夫妻御手植」の碑です。

 

前者の碑は「三笠宮寛仁親王殿下御」までしか読めず、

その下に「手」らしき文字があるように見えるといった

感じなのですが、周囲の碑から、

「御手植」と記されているではないかと推測しました。

また、後者の碑の「竹田様」とは、竹田恒徳のことです。

 

 

両者と、中山神社に祀られている中山忠光との関係は、

以前ご紹介した家系図をご覧いただければと思いますが、

実は、先程家系図を差し替えました。

理由は、家系図に寛仁親王を記載していなかったからです。

 

碑に記載されている「三笠宮」の文字を見て、

寛仁親王の父・三笠宮崇仁親王が参拝した時の

記念植樹の碑なのだと思い込み、

この記事を書き始めて、ようやく

寛仁親王参拝時の碑であることに気付いたわけです。

 

ただですね、一言言わせていただきますと、

厳密には「三笠宮」という宮号を付ける親王は

寛仁親王の父・三笠宮崇仁親王だけです。

寛仁親王は宮家を継承する前に亡くなったので、

正式には宮号は付けません。

 

……スミマセン、ちょっと強がってみただけです(汗)

 

 

さて、寛仁親王は昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王の長男。

現在の天皇陛下の従弟です。

先月、高円宮家三女の絢子女王殿下が結婚されましたが、

その伯父に当たります。

 

奔放な気質で親しまれ、「ヒゲの殿下」と呼ばれました。

「徹子の部屋」などのTV番組に出演した他、

ラジオ番組では、「オールナイトニッポン」のパーソナリティを

務めたこともありました。

平成24年(2012年)に亡くなっています。

 

 

もう1つの碑に記載のある竹田恒徳は、

明治42年(1909年)に生まれました

父親は竹田宮家を創設した竹田宮恒久王。

母親は明治天皇の第6皇女・昌子内親王で、

明治天皇にとって初めての外孫でした。

 

大正8年(1919年)、父親の早世により、10歳で宮家を継承。

後、陸軍軍人となり、

戦時中は、大本営参謀として

ガダルカナル島の戦いなどにも参画しました。

戦後、皇籍を離脱。

日本オリンピック委員会会長などを歴任し、

スポーツ界の発展に尽力しました。

平成4年(1992年)に死亡しました。

 

恒徳の三男は現・日本オリンピック委員会会長の竹田恒和氏。

恒和氏の子で、法学者の竹田恒泰氏は孫に当たります。

 

 

碑の場所はこちらです。