皇太子殿下駐駕之処 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

先日お話ししたとおり、下関市長府にあった前田砲台には

低台場と高台場がありました。

 

 

前田砲台跡で、低台場から高台場を望んだ写真です。

高台場に碑が建てられています。

 

 

低台場からだと裏面しか見えないので、

反対側に行って、写真を撮ろうと思ったのですが

……少なくとも、訪問した9月中旬には、

高台場は立入禁止でした(-"-;A

 

 

横からの写真を

ズームで撮影することしかできませんでした(;^_^A

 

 

というわけで、正面からの写真はないのですが、

碑には「皇太子殿下駐駕之処」と記されているそうです。

 

碑の題字は、伊藤博文の養子で、井上馨の甥でもある伊藤博邦、

碑文の書は木村宗吉、

そして、碑文の撰文は貝島太市が手掛けています。

 

 

貝島太市は、長く炭鉱事業に携わった実業家です。

 

父・太助は「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた人物の1人で、

貝島家は、麻生家・安川家と並んで「筑豊御三家」と呼ばれました。

貝島炭砿は、近代日本の成長を支えた筑豊炭田の中で、

最後まで操業を続けた炭鉱でした。

 

 

貝島家は、大正9年(1920年)に、当時下関市唐戸にあった建物

(元・スコットランド系商社支店)を買収して社屋としています。

英国領事館の近くにあり、英国領事館よりも大きかったようです。

 

そして、太市も下関市長府に住居を移しています。

大正11年(1922年)には、

長府毛利藩家老・三吉家の屋敷跡地に転居。

4千坪の敷地に、福岡県直方町(現・直方市)にあった

太市邸を移築したと言われています。

 

戦後、企業の本社は福岡県に戻りますが、

長府にはその後も太市の邸宅があったそうで、

太市はその邸宅で亡くなっています。

 

 

さて、昨日もお話ししましたが、

大正15年(1926年)に、時の皇太子、

後の昭和天皇がこの地を訪れました。

 

当時、前田砲台跡には、貝島太市の別邸があり、

その別邸が皇太子の野立所となりました。

 

この碑は、それを記念して

太市が昭和6年(1931年)に建てたものです。

台座を含めると高さ4mに迫る大きな碑です。

 

 

場所はこちらです。

 

 

ちなみに、貝島太市の別邸があった前田砲台跡ですが、

数年前までは電力会社の寮や訓練施設があったと記憶しています。

現在は、市有地だと思います。