雪庵梅処尼首座(谷梅処尼墓) | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

関門海峡花火大会の日ですが、

花火も見ずに家にいるねりえです。こんばんは(^^ゞ


さて。




東行庵にある、東行庵初代庵主・谷梅処、

すなわち、高杉晋作の愛人・おうのの墓です。
東行墓(高杉晋作墓) の前、1段低いところにあります。



晋作とおうのが出会ったのは、文久3年(1863年)、

晋作が奇兵隊を結成した頃だと言われています。

当時、おうのは下関で芸妓をしていました。

晋作はおうのに惹かれ、彼女を身請けしますが、

その時、正妻・雅(雅子)とは既に結婚しています。


おうのはおっとりとした素直な性格だったそうで、

雅とは正反対の女性だったようです。



おうのと雅は、明治維新後は手紙のやり取りをしたり、

おうのが上京した際には、東京に転居していた高杉家に泊まったり、

また、読み書きができないおうのの代わりに

雅が代筆したという話もあるくらいで、

関係が極めて悪かったということはなかったようですが、

おうのと雅が初めて顔を合わせた時には

さすがの晋作も参ったようで、

困り果てていることを木戸孝允宛ての手紙に記しています。

また、晋作の病状が悪化し、雅らが下関で看病することになると、

それまで晋作を看病していたおうのは遠ざけられてしまいました。


そして、慶応3年(1867年)4月14日、晋作は息を引き取ります。



おうのが出家したのは、伊藤博文、山縣有朋らの指示によるもので、

まだ若いおうのが、他の男と浮名を流し、

晋作の名を汚すことを恐れたからだと言われています。


それが彼女にとって良かったのか悪かったのか……。


ただ、坂本龍馬が死去して、坂本家とも上手くいかず、

再婚したものの、夫の死を嘆きながら

酒びたりの日々を送ったと伝えられているお龍よりは

幸せだった気もするのです。


ちなみに、雅も再婚はせず、高杉家を守りました。



墓の場所は東行庵のホームページ でご確認いただけます。