YOUTUBEで見ることの出来る予告編だけでも、じつは充分といった気分が拭えない。

日本の夜と霧にみる不安で満たされるただならぬ暗さー激高 ダラダラただただ喧騒の衝突に終始

当時の六十年安保での先進思想家、運動家諸氏たちのケンケン諤々の追認?

太陽の墓場にみられる徹底した暴力のリアリズム  やり過ぎ過剰なリアリズム

青春残酷物語の主人公たちのとにかく殺気立つしつこい挫折と絶望の鬱積の叩きつけ

最前線の先頭に立ちつつも当たり所の無い圧倒的怒りの爆発は伝わってはくるんだが…やはり過ぎたるは及ばざるがごとし

虐殺されたモーツァルトなる文言も当時の関係書籍にみられる

 

天草四郎時貞、飼育に少なからぬの客観性を見出しつつも画面のこれまた度が過ぎる時代的圧倒的暗さ、原作大江健三郎との齟齬

埋葬する手、手、手という印象的なカットだけが脳裏に残っている

 

この度の回顧上映作品群からなぜか除外されている?TVドキュメンタリー1963忘れられた皇軍の短編は大変な秀作だし、監督の意向がドストレートに伝わる秀作と言って間違いない。(もっともYOUTUBEで全篇視聴可能)

 

が1966年から1969までの連作 スチール撮影忍者武芸帳はまぁよいのか?これも含め白昼の通り魔、無理心中日本の夏、日本春歌考、帰ってきたヨッパライ、新宿泥棒日記

どれもこれもまぁ二度と見たくもないズバリ手の施しようも無い敢えての駄作の連続!退屈!冗長!徹頭徹尾意味不明!解る奴だけがついてくればいいという大変不遜な大島渚本領発揮の傲慢さ。

ハッキリ言うと映像作家大島渚に嫌悪感しか湧きおこらないよう意図的に意識的に確信的に作り上げたかと思う

監督映像作品の足跡としての一連の鑑賞媒体の認識すら拒絶する

或る意味演者俳優たちにも通常の意味での一般的な意味での演技自体を芝居を許さないー作品としての「鑑賞」を否定しー重ねて大島の言質で問われる『あなたの主体はどこに?』

 

ATG制作配給のこの時代ー1968絞死刑、1969少年、1972夏の妹、1970東京战争戦後秘話  う~ん(溜息)とにかく疲れる

愛のコリーダ、愛の亡霊、マックスモンアムール、遺作のラスト御法度は失敗作ってよりどれもこれもわたしはこの上なく生理的理屈抜き耐え難く嫌い。

上映終了後不快感嫌悪感しか残らないというのが実際だったし劇中の感情移入を許さないー繰り返しになるけど完全に意図的さらにまさに確信的なのだが、あまりといえばあまりの厳しさも気に入らない。

ゆいつ三木稔のコリーダのサウンドトラック箏で奏でられる「芽生え」には聴き惚れるが。

予備校をさぼって何回も飯田橋佳作座に観に行った1971「儀式」が唯一十八歳当時の私の大島渚映像体験というのが事実というところ。

木枯し紋次郎中村敦夫演ずる桜田輝道は三島由紀夫をイメージ、脚本が書かれ実際自決直前の三島由紀夫に出演交渉依頼していたという事実。

直後に1972あさま山荘連合赤軍騒動や内ゲバによる殺戮、爆弾闘争等と続くサヨク陣営の完全な象徴的壊滅、瓦解が連続し、オオシマ個人の心象として、ここに何もかも戦後民主主義の終焉として表現される。

映像作品としてマトモに向き合える大島渚の名を後世にとどめるものは1968絞死刑、1983戦場のメリークリスマスに次ぐ1971儀式のみ。

 

結局、それでも過去を引きずっていた個人的思考回路は二十余年前、さらに7年前になる悪性新生物に侵されたわが身が受けた試練により力づくで変転を余儀なくされた。

過度な飲酒、喫煙に乗じて好んでたジャズも、クラシックで聴いてたヘンデル、バッハ、ベルリオーズもショスタコーヴィチ、マーラーも。戦争映画の洋画DVDも。

シンドイ思想哲学は・・・すべて過去の辿った幻影、幻想と化。

かつてはサワリすら関心をもつこともなかったこの上なく明るく軽いモーツァルトのディヴェルティメント、ピアノコンチェルト、室内楽が拝聴カテゴリーの中心と。

二十年以上おおむかしだったか大腸癌摘出療養あと埴谷雄高、高橋和巳、花田清輝、武井昭夫等もすべて近くのブックオフにて処分。

7年前これまた決定的重病療養ののち大島渚映像諸作品ソフト並びに関連書籍等すべて売り払った。

いまはただただ何周も思い廻り尽くし切ったうえでのモーツァルト長調作品に受ける心象のお花畑に身も心も消し付けていたい。