現象界(物質界)と光と氣
先に以下のように、人間認識図の修正版を試みたが、不十分なところが多くある。
とまれ、右半円が氣的自然、左半円を物質的自然と考えた。
思ったのは、視覚、光の問題である。視覚は陽凸iと考えられる。それが、外界を見るとき、陰を否定して、+1ではなく、-1を見るのではないだろうか。
そうすると、光は、⇒-1の⇒になるのではないだろうか。
ここで、氣、不可視の氣について考えると、それは、⇒+1の⇒ではないだろうか。
とまれ、視覚は陰陽調和の氣(不可視)を当然見ることはできないのである。視覚である陽凸iは、原点・中心を見るが、その時、陰凹iと出会う。
しかし、陰凹iを見ることはできない。というか陰陽調和の様態である氣を見ることができない。
陽凸iは陰凹iを否定することになる。
それは、凸i*凹凹i⇒-1ではないだろうか。この⇒が光であり、視覚は-1の現象、物質現象を見るのではないだろうか。
しかしながら、陰陽調和=氣は⇒+1であり、氣的自然は-1の対蹠に存在しているのである。
そう、魂である陰凹iは、陰陽調和の様態をもち、⇒+1の氣的自然を「感ずる」ことができるのであるし、また、視覚をもっているので、氣と光を同時に心覚・知覚(心・知覚)できるのである。
しかし、この様態はどのようなものなのか。陽凸iでは光を知覚し、陰凹iでは氣を心覚するのであるとは交点(MP)において、どうであるのか。
思うに、氣は陰陽調和であるから、陰が陽へと即非的に浸透するのである。そして、その陰に浸透された陽は光を見るが、その光には、氣の陰影が刻まれるのである。
だから、その光には氣の印刻があるのである。そして、思うに、これが、美的視覚ではないだろうか。
陽と陰との即非的浸透に美的視覚が形成されると言えよう。
これは、聴覚でも同様と考えられる。しかし、聴覚はより、陰に関係していると思われるが。
今はここで留めておく。
『海舌』氏に拠る人間認識図
『海舌』氏の人間認識図修正:右半円が氣自然、左半円が物質自然:陽凸i=自我・頭、陰凹i=魂・肚
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11704667691.html
とまれ、右半円が氣的自然、左半円を物質的自然と考えた。
思ったのは、視覚、光の問題である。視覚は陽凸iと考えられる。それが、外界を見るとき、陰を否定して、+1ではなく、-1を見るのではないだろうか。
そうすると、光は、⇒-1の⇒になるのではないだろうか。
ここで、氣、不可視の氣について考えると、それは、⇒+1の⇒ではないだろうか。
とまれ、視覚は陰陽調和の氣(不可視)を当然見ることはできないのである。視覚である陽凸iは、原点・中心を見るが、その時、陰凹iと出会う。
しかし、陰凹iを見ることはできない。というか陰陽調和の様態である氣を見ることができない。
陽凸iは陰凹iを否定することになる。
それは、凸i*凹凹i⇒-1ではないだろうか。この⇒が光であり、視覚は-1の現象、物質現象を見るのではないだろうか。
しかしながら、陰陽調和=氣は⇒+1であり、氣的自然は-1の対蹠に存在しているのである。
そう、魂である陰凹iは、陰陽調和の様態をもち、⇒+1の氣的自然を「感ずる」ことができるのであるし、また、視覚をもっているので、氣と光を同時に心覚・知覚(心・知覚)できるのである。
しかし、この様態はどのようなものなのか。陽凸iでは光を知覚し、陰凹iでは氣を心覚するのであるとは交点(MP)において、どうであるのか。
思うに、氣は陰陽調和であるから、陰が陽へと即非的に浸透するのである。そして、その陰に浸透された陽は光を見るが、その光には、氣の陰影が刻まれるのである。
だから、その光には氣の印刻があるのである。そして、思うに、これが、美的視覚ではないだろうか。
陽と陰との即非的浸透に美的視覚が形成されると言えよう。
これは、聴覚でも同様と考えられる。しかし、聴覚はより、陰に関係していると思われるが。
今はここで留めておく。
『海舌』氏に拠る人間認識図
『海舌』氏の人間認識図修正:右半円が氣自然、左半円が物質自然:陽凸i=自我・頭、陰凹i=魂・肚
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11704667691.html