東照社(東照宮)造営副奉行を務めた本多正盛は同僚との意見の対立がもとで

諍いとなり相手を刀の鞘で打ちすえてしまったそうです。この件が原因で相手の

山城宮内は自害、その責任をとって正盛も妻の妹の嫁ぎ先である板橋城の城下

で自刃、遺骸は例幣使街道(国道121号)に面した板橋の福生寺に葬られました。

元和3年4月22日41歳でした。直前の4月4日には東照社が完成、16日には

将軍秀忠が日光へ到着して17日に東照社の祭礼が行われるという大事な時に

不祥事を起こした責任を取らされたわけです。諍いの真相は分かりませんが

恐らく東照社造営工事に関する意見の食い違いがあったのでしょう。

(東照社が東照宮となるのは宮号が宣下された正保2年(1645)11月以降)


正盛は家康側近の猛者内藤正成(徳川十六神将と讃えられた武将の一人で

武田軍にも恐れられた武勇の人)の三男として生まれ、本多忠信の養子となり

下総小見川藩や高崎藩主であった安藤重信の娘と結婚、正盛の子三人は後に

安藤家の養子となり長男重長は家督を継いで高崎藩主となっています。


福生寺(例幣使街道板橋交差点の角)
日光春秋
本多正盛の墓は道路からすぐの場所にある。
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案内板の説明  説明に内藤正盛とあるのは「正成」の誤りではないか。
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板橋城址入り口 城館は城山(標高443m)の尾根伝いに展開していた。
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