万里子くん(仮名)という友達がいます。


抜けるように白い肌、細長い手足、器用で華奢な指。
よく澄んだ瞳、整った口元。とても綺麗な子です。


万里子と最初に会ったのは、とあるイベント会場でした。知り合いの男の子の彼女として紹介されました。


そこはライブハウスとはいえ、イベント自体が社会学系の地味な内容だったので、華やかな格好をした人はあまりいなかったのですが、万里子はふわふわの真っ白なデコルテをおしげもなく露出させて、クラブに行くような・・・というかキャバ嬢のようで、サラサラの栗色の髪をキラキラさせて、すごく目立っていました。

そして私を見るやいなや、「まぁあなたがkinkumaね!」と嬉しそうに笑って、初対面の私をぎゅっと抱きしめたのでした。



見るからにオープンマインド。人とのコミュニケーションも常にゼロ距離。裏も表もなしでありのまま。盛り上がれば、ニコニコして服を脱ぎだして踊りそうな陽気な、でもとてもナイーヴな26歳でした。


なのに、私は

彼女を初めて見たとき、「あーなんて傷ついてる女の子なんだろ」と、一目で何かの記憶を共有してしまった気がしました。

私は残念ながら、彼女のように華やかで目立つ女ではないのですが、そういう意味ではなくて、昔の自分を見ているようでした。

とても他人に思えなかった。



大きな声と態度で、周りの人を引かせて、同時に興味も惹かせて、笑わせたり泣きついたり、でもそのくせそのデカイ態度の裏にある、ほの闇い心の在り様に誰も気を留めてもらえない。

いえ、多分周りはその彼女の危うい感じに、ちゃんと気づいているのですが、受けとめようとする人はその時にはいなかった、ということなのかもしれません。


いわゆるメンヘラの女の子という感じではなく、一見堂々としていて、エネルギーに満ちている。なのに、その裏側が欠けていてカラッポなのです。


その日の最後に、早くも万里子は私の前で泣きだしてしまい、それから万里子とよく話すようになりました。


、この万里子の抱える闇は、私が想像していた以上に深かった。


もう、世にいうケータイ小説の王道を地で行く、っていうかそれよりよっぽど壮絶なアレコレを聞くにつれ、痛ましくてなりませんでした。


彼女の虚言癖を指摘する声もありましたが、そいう問題でもない気がして。


それが嘘でも本当でも、カッケラカンと凄いコトいう万里子の姿は切なかった。




、万里子くんと付き合うのは大変でした。とにかくとてつもない電話魔で、深夜だろうが早朝であろうがまったくお構いなしに電話がかかってくる。
そして、すぐぶっ倒れる(TωT)


幻冬舎の見城徹が、在りし日の鈴木いづみの電話攻撃がすごいことを回想していたことがあるのですが、その時の見城さんのトホホ感に大きくうなづいてしまった。

でも、ほっとくとどうにかなってしまいそうで、それが怖くてやっぱり2回に1回は電話に出てしまう。(見城さんも鈴木いづみの最後の電話を無視したことを、言外に後悔していたし(_ _。))


そんな万里子の幸せを願って、いろんなことを調べだしたら万里子文庫ともいえる一コーナーが、私の本棚にできてしまいました。

本日の一冊はその中のものです。


『排斥と受容の行動科学』
浦 光博著
サイエンス社
2009年


kinkumaのブログ

この本をパラっと見たとき、「サポートが人を傷つけることもある」という項があって、気になったので読みました。



この場合のサポートとは、家族とか恋人とか、友人とか仕事仲間とか、地域社会等とにかく人が生きていく上で関わる関係性で生まれる、
親和的な働きかけ全般のことを指します。

そもそも人は困難を感じると、自分の内外にある様々な資源を用いてそれに対応しようとするそうです。その際頼るのは例えば

①仲間や制度=ネットワーク・ソーシャルサポート

②自尊心・統制感・楽観主義

③生活に意味や秩序を与える信念

④ポジティブな気分や幸福感など、“一時的(でもいい)”な感情状態


だそうです。そしてこれらがあると、人はストレスの痛みを軽減して、ストレスをレベルダウンして受けとることができるようになるそうです。



なので、

周囲の人びとから日常的に多くのサポートを受けている者は、一時的な排斥によって被る心理的・生理的なダメージが少なくてすむ


そうです。


このサポートのカタチが何気に、無形のものが多いというか、ある意味心のパワーというか、考え方だったり、上手く自分の心をコントロールする術を知っているか知っていないかだけだったりするものが、実際のサポートと並列されているところがスゴイ。

というか実際にそうだからなのだとは思うのですが、そういう力って本当に大事なんですね。

でも、それこそが中々持てないものだったりもします。


例えば、自尊心や生きている意味なんて、これが欲しかったりなかったりするから、私たちは必死で仕事をしたり、自己実現を目指すわけで。


あと、④の“一時的な幸福感”も良く分かる。私の場合はこれは大人になったらライブハウスで聴く音の波でした。自前でもう作品とか作れないときは、これ。あとお酒。(子ども→思春期はもちろん本、本・・・)


これが、人によってはスポーツだったり、映画だったり、チョコレートだったりするわけですよね。(キャバクラも、ホストクラブもきっと、そういう活力になっているんですね。上手く使っている人にとっては)


心理的な作用をみると、こういったサポートがあると人は、

A 困難を過大評価せずに、冷静になれる

B 困難の原因を取り除くことができる

ということで、すばやくストレス原因から逃れることができるそうです。だから大事に至らない。


また、仲間のサポートという点では、例えば友達と一緒に登る坂道は、なぜか傾斜がゆるやかに感じる、その人がめくばせしたり、ほほ笑んだりするだけで、さらに「その人がいる」と想像するだけでも、心理的には大きな効果がある、という実験結果が載っています。

そもそも、この本の著者・浦さんは、社会心理学を研究する大学の先生なので、この本もエッセイではなく、厳密に実験したその結果が、ずらりと並んでいるのです。


では逆にサポートが無い場合はどうかというと、



人は孤独になっていく=孤独な人は排斥に敏感で仲間はずれ感が打撃になりやすい


上記の4つの資源を持つためにも、
特に人は居場所を持つということが、非常に大事なことなのだそうです。

居場所を持っていないと人は

①心身の健康を損ない
②他者に向けての怒りや攻撃性が高まり
③ひいては、社会全体の様々なリスクを上げる存在となってしまう

※(最後の③は、「だから社会の中で相互扶助は、助けを必要としていない人間にとっても利益になるから推進しましょう」という結論に達するために挙げられているのだと思います)


そもそも、人は他者からの排斥に対して、自分で思っている以上に敏感に反応しているそうです。なんと体が実際に傷ついた時と同じ場所が脳内で反応するそうです(前部帯状回背側部)。


だから、肉体的ないじめがなくても、給食を一人で食べるというだけで、殴られたのと同じくらい辛いんですよね。


ここで言われるサポートは、派遣村村長だった湯浅誠がいう“溜め”という概念にとても近い。彼は東大在学中から、野宿者の支援を20年近くやっている人ですが、仕事を失ってすぐ貧困に陥ってしまう人には上記でいったような有形無形のサポート≒“溜め”がとても少ないと指摘します。

心の余裕もないし、さらに周囲という意味でのバッファもないから、ストンとすぐにどうにもならない状態に陥って、路上に出てしまう、と。

でも、そういった“溜め”って、外からは全く見えない上に、家庭環境とか教育とか、本人にはどうすることもできない「あらかじめ与えられた条件の違い」であることがとても多い、だからそこを見もせずに、「そこまでに至ったのは本人の努力が足らないせいだ」と考えるのは、あまりにも拙速で何の問題解決にもならない、と湯浅さんは憤るのです。
本当にそうだと思います。


人間の最初の居場所といえば、家族です。この居場所が機能していなければ、それは居場所があるとはいえない。


万里子も、根本的な問題はそこにあるのが、徐々に分かってきました。典型的なACの上に、ほかにも問題を抱えてしまっている。でも、大本はそこだと思うと、彼女の与えられてなさは、彼女のせいではないわけで、周囲がサポートするのは当たり前です。

そう思うのは私だけではないようで、万里子の周りには実に個性豊かな友達がたくさんいて、やっぱり万里子を心配して世話を焼いていることも、次第に分かってきました。


さて、本書に戻ります。

サポートの重要性は分かった、では逆に「サポートが人を傷つける」とは、一体どういう状態でしょうか?


それは、

サポートをする側が押し付けがましいと、される側は逆にストレスになる

ということです。


詳しくいうと、


①サポートをする側が、サポートをされる当事者より「できる人」になると、される方が傷つく

②サポートは受け手の期待よりも、上でも下でもダメ

③サポートする側がその道のプロなら、受け手の期待よりも上のサポートを受けても
良い結果が生まれる


つまり、サポートをしたいと強く願って行動するだけだと、結果的には逆効果になってしまうこともある、ということです。相手の気持ちを細心に推し量って、出すぎず、強い言い方にならないように、そして彼女の期待には応えられるように・・・・・・。

上記の禁止事項は、私には陥りやすい性格なので、目からうろこが落ちるようでした。


もちろん、正直これを読んだときには

「人間ってめんどくさいなー・・・・・・」

と思ってしまったのも事実ですが(^_^;)


でも、万里子の幸せにならないのなら、そんなサポート意味ないです。心にしっかと刻みました。

しかし人の心は薄い硝子みたいです。
皆さんのココロもきっと綺麗な色の硝子質ですよ(^人^)

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

で、これでまったく終わらなくて次々にとんでもないことが
万里子に起こるのですが、それはまたいずれ。

そろそろお布団に参りましょう。
ぐっすりお休みなさい。



トランジット


雨がやんだ後の飛行場で
君と出発の時をまっている

夕暮れのロビーは行き先を持つ人や
別の飛行機から乗り換える人であふれ、一方
遠方から戻る人は

目的を果たしたようでその顔は、一様に安らいでいる
再会を喜びあう家族もいる

アナウンスが流れ手をつないで搭乗口に立つ
広々した地平に爽やかな風が吹く
見上げた空にはきんいろの月があがっている

ゆっくりと大きな翼が近づく
笑顔で振り向き指をさす君の背に
伸びていくタラップ、その先に


新しい人生の入り口が明るく開かれている

le dimanche 26 septembre 2010

kinkuma
友人 カフェ・スローというカフェが国分寺にあり、私も何度か伺ったことがあるのですが、何とも居心地のいい空間で、一緒に行った友達とつい長居してしまいました。

オーガニックの丁寧な味のコーヒー、ベジタリアン向けのメニュー中心の食事もほっとする美味しさで、いーんですが、それ以上にがらんとした空間をたっぷり使い、席と席の間を贅沢に広くとった空間設定の気持ちよさが、その理由のようです。

このカフェを設立したのが、本日の一冊の著者であり、文化人類学者である辻 信一さんです。

『スローイズビューティフル』
辻 信一著
平凡社
2001年


kinkumaのブログ


この本一冊がまるまる名言と希望に満ちたオルタナティブ―もう一つの可能性の宝庫で、書き写していると、ペン一本つぶれてしまう勢いなのですが、でもこの本を読んでいる間の幸福なドキドキ感は、他の本にはない特別な魅力があります。

例えばこんな文章

ぼくたちの社会は時代は、自己決定や自己嫌悪という呪詛に満ちている。スロー・イズ・ビューティフルは、その呪縛に対抗し、そこから自分を解き放つための、自前のまじないであり、処方箋であり、心構えであり、祈りであります



生きるためには時間がかかります。1時間半かけて、ひいた出汁で作ったみそ汁だって食べるのは10分だし、体は洗わなければすぐ汚れます。掃除だって、義務だと思っているとイライラするし、早く終わらせるのが美徳だと、躍起になってやってしまう。で、疲れる。

でも、この本を読んだ後は、それも生きるに必要なプロセスだよな、と考えたら嫌でなくなったのです。そう、生きることには時間がかかる、それで当たり前なんだと気づいたら、むしろ何かいいなぁと思いながら味わって掃除すると楽しい。
箒が、畳をシュッシュッと掃き移動していく音でさえ気持ちよく感じる。

それは、“生きること”そのものを味わう、気持ちの空白ができたからかもしれません。
その「空白」を呼びよせる言葉が、この本のタイトルにも出てくる、“スロー”という単語で、そしてこの単語を使って辻さんは私たちに


「スローダウンしてみよう」

と語りかけます。

これが、なぜかすごく気持ちが楽になる。

こうも書きます。

(近代化する前の)インドの文化を壊したのは、広告でなく時間の速さだ。特に高速スピードで感覚を激しく刺激し続けるTVコマーシャルはインド文化に何千年と続いた瞑想という伝統を真っ向から否定した


まぁ、世界がグローバル化することを最早誰も止めることが出来ない今、一カ国だけがTVコマーシャルを打たないことを貫くことはできないし、TVコマーシャルそのものが悪いわけではない。が、それを受け止める視聴者の方が、完全にそこにある時間の流れや、消費というものに支配されてしまうことが問題なわけです。だから、私たちはそれに対して自覚的でなくてはならないし、対抗できる時間そのものに対する哲学を改めてインストールしなおさなければならないような気がします。

前に『カーニヴァル化する社会』を紹介した際に登場した、社会学者の鈴木謙介先生も言ってたのですが、私たちはどうしても「いつかのこの時のために頑張る」という生き方をしがちです。

というか、私なんてまさにその権化のような人間で、目標設定してそれに向かってガムシャラに走る、というのが好きなタイプです。未だにそういう傾向はあります。でも、「いつか」って、実は明確に日時のあるいつか、ではない。

だから、無限のバージョンアップを自分に強いて、それに次第に疲弊してしまい、虚しさを感じてしまう、というのが鈴木先生の危惧だったのですが、この本でも同じことが言われます。


本来私たち人間はみな答えを生きるものだと思います。しかしそれがいつの間にか、問いをたてて生きるかわりに、その問いを生きるようになっていないでしょうか?

この「問いを生きる」という生き方を、私は革命家や芸術家の生き方だと解釈しているのですが、私はこの生き方に、とても憧れます。
が、結論としては、私には出来なかった。

安定や心地よさが欲しい、というよりは私は“幸福である”という実感があまりにも長期間ないままだと、自分の信念に疑いが出てきてしまった。それを一生貫く勇気がなかった。それに途中で気づいてしまいました。

でも、皆さんがご自身のかけがえのない人生を、ご自身の生き方で生きておられるのと同じように、私も私の生き方をしていくしかない。

どんなに憧れても、私は他の人にはなれない。賢治にはなれないし、田中一村にもランボーにもなれない。

You can't be no one else
(お前はお前以外の者にはなれない)


と歌ったのはOASISですが、あー今になってよく分るよ、ノエル・・・・°・(ノД`)・°・

そして、この本にはその他でもない自分が、真に自分を取り戻して生きていくための、骨太の思想を背景に持つ素晴らしい価値観がたくさんあります。

それは単に概念としての生き方だけでなく、生きる技術としての方法も載っているところが素敵。特に“住む”ということについての多彩なヒントは胸躍るものばかりです。

例えば、デモ・ハウスとして登場する、長野県・伊那谷にあるダグラス・ファーのツリーハウスは、

風と太陽光のハイブリッド発電でつくられた電気が使われ、地下のバッテリーに充電されてダグラスが日常的に使うポンプ・照明・ステレオに使用されたり、

生活用水は100%と雨水を利用し、枯れ葉や活性炭などの濾過装置を通ってタンクへ行き、オゾン殺菌処理されて飲み水やキッチン、シャワーにいく、

トイレはコンポスト・トイレで便と尿を分けて処理・尿は簡単に分解できるし、便は一週間で肥料になる


あー夢がいっぱいOo。。( ̄¬ ̄*)



もちろん、昨今の地方を巻き込んだアート実践の困難さと同じく、こういう変わったことをしようとする都会の人は、地元と折り合いをつけるのが大変で、ダグラス・ファーも苦労したそうですが、彼はやり手なのでこのデモハウスを作ると当時に、浄化装置、太陽光発電、風力発電など自然エネルギーの機器を開発・販売する会社を4つ経営し、環境専門大学院の開校を目指している、ということですからそのバイタリティ、頼もしすぎます。

辻さんも、ダグラス・ファーも、環境問題に取り組むアクティビストの側面も持っているわけですが、そのやり方がカッコイイ。

私の好きな高円寺のアクティビスト、松本哉さんもそうですが

抗議をしたり、反対運動をするだけでは足りない。それよりもむしろよいものをつくってみんなに示してあげる方が有効だ

それを脇目もふらず、ぶっとばしてやるのではなく、仕事したり掃除したり、お酒飲んだり、音楽聴いたり友達や恋人と語り合ったり、そういうことにきちんと時間を使って
今を大切に生きながら出来たらやっぱりカッコイイ。カッコイイと人は集まってきますよね。


実際仕事で日々困憊している方などは、中々スローっていったって、という感想をお持ちになると思いますが、もしそれでも何とはなしに体にきてたり、辛い気持になることが多ければこの本はおススメです。

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

15年後には田舎暮らしできるかなぁ、なんて夢想しながら
本日はそろそろお布団に参りましょう。
ぐっすりお休みなさい。