南京大虐殺の写真展「戦争という名の狂気 知られざる事実 南京事件」で展示された写真がインチキ
神奈川新聞が宣伝した写真展「戦争という名の狂気 知られざる事実 南京事件」の写真がインチキ!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161011-00012603-kana-l14
南京大虐殺の事実を知って 12日まで写真展
カナロコ by 神奈川新聞 10月11日(火)7時3分配信
南京大虐殺をテーマにした写真展=横須賀市本町
旧日本軍による南京大虐殺をテーマにした写真展「戦争という名の狂気 知られざる事実 南京事件」が、横須賀市本町の市立市民活動サポートセンターで開かれている。市民団体「州和会」の主催。12日まで。
民衆の前で首を切られる男性や、野原に横たわる死体など残虐な写真19枚を展示。同会代表の橘田恒之さん(68)が、中国残留孤児の帰国運動などに関わっていた男性から譲り受けたものという。
橘田さんは「21世紀を担う若者たちに南京事件を知ってもらい、二度と戦争はしてはいけないと感じてほしい」と話している。
>旧日本軍による南京大虐殺をテーマにした写真展「戦争という名の狂気 知られざる事実 南京事件」が、横須賀市本町の市立市民活動サポートセンターで開かれている。
神奈川新聞の記事に掲載されている画像からは一番手前(左端)に写っている写真だけが何の写真か確認できる。
【拡大画像】
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しかし、この写真は所謂「南京事件」(南京大虐殺)とは全く関係のない写真だ!
この写真は、満州の張学良の部下が盗賊を銃殺して見せしめとして首を切って晒したものを撮影した写真であり、1937年の南京戦よりも何年も前から満州や朝鮮の土産屋などで「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」と題して販売されていた写真だ。
この写真は、昭和59年(1984年)に朝日新聞が「南京大虐殺」の証拠写真として捏造報道した際にも使用した写真であり、南京問題の研究家の間では非常に有名な写真だ!
>民衆の前で首を切られる男性や、野原に横たわる死体など残虐な写真19枚を展示。同会代表の橘田恒之さん(68)が、中国残留孤児の帰国運動などに関わっていた男性から譲り受けたものという。
他人から写真を譲り受けただけで何ら検証もせずに「戦争という名の狂気 知られざる事実 南京事件」と題して写真展を開催する市民団体「州和会」代表の橘田恒之は、とんでもないペテン師だ!
「知られざる事実」が聞いて呆れる!
しかも、神奈川新聞も【旧日本軍による南京大虐殺をテーマにした写真展】と無批判に記事にしているのだから、悪質な反日プロパガンダだ!
「州和会」代表の橘田恒之も神奈川新聞も、日本を悪者にでっち上げたくて仕方がないのだ。
(参考)
http://www.yokosuka-supportcenter.jp/hp/support/db/f704.html
州和会
会員数
30人(男性 20人/女性 10人)
会員年齢層
70歳代 - 80歳代
問合せ:横須賀市立市民活動サポートセンター(TEL: 046-828-3130)
なお、所謂「南京事件」(南京大虐殺)の写真とされるモノには、本当に「南京事件」(南京大虐殺)の証拠と成り得るモノは1枚たりともない!
全ての写真は、所謂「南京事件」(南京大虐殺)とは全く関係ない写真だったり、「いつ」「どこで」「誰が」撮影した写真なのかが一切不明だったり、誰かが捏造したり修正したりした写真ばかりであり、「日本軍の犯罪の証拠」としては到底認めることができないモノばかりだ。
南京で日本軍による虐殺は一切なかった(犠牲者数ゼロ)のだから当然だ。
さて、上述したとおり、昭和59年(1984年)、朝日新聞は、1937年の南京戦よりも何年も前から満州や朝鮮の土産屋などで「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」と題して販売されていた写真を「南京大虐殺」の証拠写真として大々的に報道する事件(宇和田日記捏造事件)を起こした。
嘘を吐こうが捏造記事を書こうが反日であるならば「反日無罪」となる日本であるにもかかわらず、朝日新聞の捏造があまりにも杜撰過ぎたために朝日新聞が裁判で負けたほど酷い捏造記事だった。
朝日新聞は、「南京大虐殺」について、昭和59(1984)年8月4日夕刊と翌5日朝刊の全国版で、「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題した記事を掲載した。
翌年の1985年12月、朝日新聞が前年1984年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が捏造だったと判明。
1986年8月、濡れ衣を着せられた都城23連隊の連隊会は、日記(宇和田日記)の内容も捏造と確信していたため、日記の保全が第1だと考え、小倉簡易裁判所に対して日記保全を申し立てた。
1986年12月、裁判所は、連隊会側の主張をほぼ認め、朝日新聞に日記を見せるよう判決。
朝日新聞は、福岡地裁小倉支部に抗告するなど、時間稼ぎ戦術を展開。
連隊会側は、本裁判となれば10年はかかるため、連隊会員たちの余命がなくなると判断し、「都城23連隊は南京事件に無関係である」という記事を全国版に載せてもらうことを朝日新聞と合意し、保全申し立てを取り下げた。
ところが、朝日新聞は、宮崎県の地方版にしか「都城23連隊は南京事件に無関係である」という記事を載せず、全国版に載せる約束を反故にした!
朝日新聞の悪逆暴虐!極に達す!!
朝日新聞は、この「宇和田日記」捏造事件について、未だに謝罪も記事取り消しも行っておらず、それどころか約束した「連隊は無関係」という記事の全国版への掲載すら行っていない!
朝日新聞は、この「宇和田日記」捏造事件についても、記事取り消しと謝罪をしなければならない。
▽詳細記事より一部再掲載▽
▼1984年の朝日新聞による「宇和田日記」捏造事件▼
朝日新聞が1970年代に突如開始した『南京大虐殺』の大キャンペーンの中でも、特に悪質だった1984年の捏造報道事件を紹介する。
「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」
「鉄嶺」は満州の都市。
張学良の配下の者が匪賊を銃殺し、見せしめとして首を切ったものと考えられ、当時この写真は満州や朝鮮などで販売されていた。
ところが、1984年8月4日、朝日新聞は、どこかでこの写真を入手し、日本軍による「南京大虐殺」の証拠写真として、とある「日記」と共にスクープ記事に掲載した!
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊
「日記と写真もあった南京大虐殺」
「悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」
しかし、やがて、写真は偽物!!
日記も、朝日新聞による加筆あるいは改竄があったことが判明した。
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_bungeishunju875.html
朝日新聞との闘い・われらの場合
都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ
吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)
「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。
「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。
思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。
(略)
支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
支局長「そこのところ何とか」
2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。
(略)
いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。
ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。
全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。
この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。
昭和60(1985)年12月20日、"お詫び"記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。
この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。
事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。
中山氏はさっそく、
「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。
ところが支局長は言った。
「全国版?全国版には載せてありません」
「載せていない?それじゃ約束が違います」
「約束した覚えはありません」
「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか。」
「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」
そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。
中山事務局長は、
「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、
支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。
やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。
「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」
朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。
それから1週間ほどたった12月28日、朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。
「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると朝日が大見得を切った写真は、旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。(その後の報道で、この写真は昭和6(1931)年、当時の朝鮮で市販されていたもので、満州の凌源で中国軍が馬賊を捕らえて処刑したものと判明する)
(以下略)
1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が偽物だったと判明
関心を持たれた方は是非、全文読んで頂きたい。
朝日新聞の卑劣さが良く分かる。
朝日新聞との闘い・われらの場合
都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ
吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_bungeishunju875.html
「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載
この朝日新聞による「宇和田日記」捏造事件については、『「宇和田日記」(日記帳)の現物があるから信頼できる』といいうような頓珍漢な主張をしている馬鹿もいる。
しかし、この朝日新聞の日記捏造事件の核心は、本当に存在した宇和田日記に、後日誰かが大幅に加筆、あるいは改竄(書き換え)を行ったことにある。
騙されてはいけない。
当該事件の核心(想定)は以下のとおり。
――――――――――
1973年(昭和48年)、宇和田弥一、死去
1978年(昭和53年)の戦記編纂の以前に、宇和田氏の日記帳に誰かが加筆し、戦記編纂委員会に提出
戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送される
・その後、さらに、誰かが大幅に加筆、あるいは改竄(書き換え)を行い、日記は朝日新聞に渡る
1984年(昭和59年)年8月、朝日新聞に5段抜きの大見出しが躍る。「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題された記事は一大センセーションを巻き起こす
1984年末、吉川正司氏は、日記の【現物】を見せてもらったが、3メートルほど離れたところからで、判読は出来ず
1985年(昭和60年)2月、朝日新聞宮崎支局で2回目の会談。連隊会側5名、朝日新聞側は中村支局長。日記の【現物】は、5メートルほど離れてから広げられたので、日記帳だと判断することさえ出来ず
1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が捏造だったと判明
1986年(昭和61年)1月、朝日新聞宮崎支局会議室において、連隊会と朝日西部本社の会談。出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。「日記も嘘である。・・・日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じず
1986年8月、日記の保全が第1だと考えた吉川氏は、弁護士を通じて小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立て
1986年12月、裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日に日記を見せるよう判決。朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、福岡地裁小倉支部に抗告
本裁判となれば10年はかかるため、連隊会員たちの余命がなくなると判断。「うちの連隊は南京事件に無関係である」という記事を朝日の全国版に載せてもらうことで、保全申し立てを取り下げることを朝日に通告
1987年(昭和62年)1月、連隊会にも報告
連隊会は不本意なまま、朝日新聞との闘いを終えた。
――――――――――
「神奈川新聞は、捏造写真展の宣伝をするな!」