考える。 | とあるインテリア・家具デザイナーのブログ

考える。

昨今の資本主義経済社会においては、

自尊心と虚栄心は人間行動の中心的特徴だと感じる。

潜在意識が固定観念に合わせて、現実認識を形成するのである。

しかしその認識は生まれ持った環境によってさまざまである。

単純な種の保存という行為以外の行動様式に人間が生きる価値

を見いだすようになり、価値観の多様化とともにものすごい

勢いで発展、発達する生活様式の変化に根源的、還元的思考は

いまだ意味をなすものなのか。

金融工学というものは、時間軸を概念とした錬金術という見方

もできるが、そのからくりは仕手だった。

人間が生み出した物すべては人為的な力が

多かれ少なかれ働く。

経済活動の一環にそれ自体が組み込まれている以上、

関与する対象と階層、付加価値によって理想からは

かけ離れたものとんる。

すべての事象を合理性のみで思考するべきではない。

人間の精神的豊かさと経済学という分野でよくつかわれる

合理性とのギャップこそが、人間関係の重要な部分である。

要するに個々に固有の感情を持った生き物ゆえ、

そのギャップに心が動くのである。

すべてが貨幣に変換され交換される経済活動、

これは世の中の必然だったのか。

共産主義が昨日しないのは過去の歴史からあきらかである。

競争が制限されたマクロ規模の社会では、創造性が低下し

人的な投資がおこなわれない状況にある。

中国は現代の共産主義の特異な例として発展しているが、

この状況が永遠に続くとは思えない。

力の構造があまりにも負の意味で有機的に結びついているため、

当分この状況は続くのであろうが、貧しい民がいつかこの体制を

少しでも変革する日は来るだろう。

しかし資本主義という言葉の意味も、今後我々人類が共存

するという理想においては、マネーが最重要の意味を

持つべきではないのであろう。

主体性を持って客観的見地、思考から積極的に関わるフィールドに

関与し、その内部において常に健全であり、個々の付加価値の

変更を適切におこなうことが重要なのである。

フェラーリが超のつく高級車なのは誰もが知っている。

それを買うお金を持っているとして、その車の特性を良く知り

それだけの金額に見合う価値があると思うから購入するのか、

ただ単に周りから物質主義という名の羨望の目で見られたいから

購入するのか。

このことを頭で考えて他人に説明できる人間は結構少ない。

いきすぎた経済活動における、高級ブランドのブランド戦略も

短期的収益に固執し、消費者にこういった印象をあたえる結果となる。

人間の消費行為には心理が大きく関与する。

企業はそれを戦略にうまく組み込む。

でも、そんなことしなくても安くて質の高い商品は売れる。

ユニクロはそういう認識を消費者が持ったから爆発的に売れている。

つまり商品の価格と質が見合ってない場合、どうやって売ろうかと、

こういった部分の戦略なのである。

人間の生活の最重要基盤は家族である、その次に仕事である。

ほとんどの人は。

私は去年、結構自由に生きて来た、フリーの仕事なんで。

日本と中国を行き来して色々な出会い、経験をした。

文化や生活習慣の違い、出身による格差など中国固有の部分は

日本人である私に多くの思考する時間をとらせるには十分である。

で、結局人間は何のために生きるの?

資本主義は物質の快楽である。

ものすごい極地的な理論でいえば、

車は人間を運動不足にする。

霜降り和牛は人間の肉体を不健康にする。

いい車に乗り、美味しい食事をするという行為が生活に極上の

スパイスをもたらすのが資本主義の究極の形である。

(これは極地的な1つの意見であることをお忘れなく)

しかしながら人間な死ぬ時にお金や車、家を一緒に持って

いかるわけではない。

人間の本質って何?

この現代に生まれた我々はこの状況の中で何を思考するべきか?

今年もこんなことを考えて生きているのだが。

ある程度の段階でたどり着けるであろう遥か遠い道のりを。

やはり私は現代のただただ単純な機械的な歯車では人生楽しめない。

というか現代で楽しもうという考え方こそ罪なのかも。

現代において総体的な楽しむという行為は意味をなさない消費が

その大部分なのであるから。

今日も考えて、明日も。