家庭日記 (shochiku.co.jp)

東京日日新聞朝刊連載小説 家庭日記 | ToMuCo - Tokyo Museum Collection

昭和モダン好き 広告「東寳映畫『家庭日記』」(1938)

 

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原作 吉屋信子 - Wikipedia

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初め『花物語』などの少女小説で人気を博し、『地の果まで』で文壇に登場。以後家庭小説の分野で活躍し、キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得[3]。戦後は『徳川の夫人たち』が大奥ブームを呼び、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続けた[3]同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした[4]

 

 

日本が戦争へと暴走した国論形成の一端を担ったと視てる

国防婦人会 - Wikipedia

1938年10月撮影、靖国神社臨時大祭で参拝する会員

1932年3月、大阪港の近所、市岡に住む主婦、安田せいと三谷英子が中心となり、大阪朝日新聞の大江素天のほか、港の見送りで親しくなった市岡警察署(戦後は港警察署)主任、憲兵特高課員らの協力を得て「大阪国防婦人会」として結成された。その後、軍部の強力な後押しを受けて、その年の10月には「大日本国防婦人会」が結成された[注釈 1][4]

居住地単位や職場単位の分会方式で急速に会員を増やして全国に分会を持つにいたり、先に結成されていた愛国婦人会内務省系、1901年 - 1942年、略称愛婦)や大日本連合婦人会文部省系、1931年 - 1942年、略称連婦)をしのぐ大組織となっていった。1940年12月には、国婦総本部は会員数9,052,932人としている[5]

しかし戦争が本格化すると、秘密保持のためとして出征兵士の見送りも制限されるようになっていき、防空演習や労力奉仕などでは割烹着の非活動性が批判をうけるようになり[6]、最終的に、割烹着はもんぺにとってかわられ、国婦は並立していた婦人団体、愛婦・連婦と統合され「大日本婦人会」(1942年 - 1945年、略称日婦)となった。

 

 

 

 

従軍作家として起用された信子は、行く先々で軍部の厚遇を受け、通州事件の跡地を訪問した後には、日本の国策と軍部の思惑に従った文章を発表した。少女小説・大衆小説の人気ぶりが、全国民を動員する総力戦に利用された側面があった[34]

信子による従軍ルポは、従軍記として完全な構成で、これらの戦争が日本の侵略であることを無視しており、率先して愛国思想・軍人賛美・中国侵略擁護を行ったものとして厳しく批判されている[35]。一方で、当時のジャーナリズムの中では自国の戦争遂行に異議を唱えるのは困難であったことを考慮するべきという指摘もある[35]

 

乗せた奴と乗せられた奴、吉屋がどちらかと言われたら後者だと思う。

フェミの起源みたいなところはあるけれど、たまたま性癖が発現発症しやすいタイミングだったのだろうと現時点での感想。