『千石纏』(せんごくまとい)は、1950年(昭和25年)に子母沢寛が発表した新聞小説であり、同作を原作として同年にマキノ雅弘が監督し、東横映画が製作、東京映画配給が配給して公開した日本の長篇劇映画である。
- 製作 : 東横映画
- 上映時間 (巻数 / メートル) : 84分 (9巻 / 2,288メートル)
- フォーマット : 白黒映画 - スタンダード・サイズ(1.37:1) - 24fps - モノラル録音
- 映倫番号 : 357[2] (旧映倫)
- 公開日 : 日本 1950年12月31日
- 配給 : 東京映画配給
- 製作 : マキノ光雄
- 企画 : 柳川武夫
- 監督 : マキノ雅弘
- 原作 : 子母沢寛
- 脚本 : 館岡謙之助、依田義賢
- 撮影 : 三木滋人、吉田貞二
- 照明 : 田中憲次、小林武雄
- 録音 : 加瀬壽士、中山茂二
- 美術 : 小池一美、塚本隆治
- 編集 : 宮本信太郎、祖田冨美夫
- 助監督 : 小沢忠弘
- 装置 : 村居常治郎
- 装飾 : 西田孝次郎
- 背景 : 池田金三郎
- 装身具 : 山崎敏夫
- 電飾 : 野村清太郎
- 記録 : 大内小夜子
- 衣裳 : 前田正二
- メーキャップ : 林政信
- 結髪 : 西野艶子
- 音響効果 : 江戸川一
- スチール : 江崎洋
- 立師 : 足立伶二郎
- 演技事務 : 渡部健作
- 音楽 : 大久保徳二郎
- 演奏 : 中沢壽士とシンフォニックジャズオーケストラ
- 協力 : 江戸消防記念会、出羽海秀光
- 木遣 : 浅草吉奴
- 進行主任 : 寺川千秋、橋本慶一
- 特別参加 : 横綱東富士、出羽海一門
- 相撲指導 : 秀の山勝一
- に組の長次:片岡千恵蔵
- 不動山宗吉:市川右太衛門
- に組の組頭勘兵衛:月形龍之介
- 小蔦:花柳小菊
- お蘭(夕丈):喜多川千鶴
- 鉄五郎:小杉勇
- 萬五郎:大友柳太朗
- おゆう:高山廣子
- お米:毛利菊枝
- 梯子持市兵衛:澤村國太郎
- 関取阿蘇川:山口勇
- 亥之助:戸上城太郎
- 勝助医者:高松錦之助
- 安藤輝丸:小林重四郎
- 福六:上代勇吉
- 七太郎:高木新平
- 長屋のお内儀:赤木春恵
- 新八:時田一男
フル動画前編
後編
小説『千石纏』は、『東京日日新聞』(現在の毎日新聞夕刊)、『新関西新聞』、『愛媛新聞』の3紙に掲載された[1][4]。単行本が上梓されたのは、映画が公開された後、1951年(昭和26年)である[5]。最初に文芸図書出版社から、1956年(昭和31年)には版元を変えて桃源社から出版された[5]。
第二次世界大戦後、従来興行会社であった東横映画が大映との協定を結び、1947年(昭和22年)、「大映第二撮影所」(現在の東映京都撮影所)を借りて同撮影所を「東横映画京都撮影所」[6]として製作を開始して以来、4年目に入った同社の正月第一弾映画である。本作は、同社でのマキノ雅弘(マキノ正博)の5作目にあたり、翌年1月5日には、同社の正月第二弾映画『女賊と判官』が公開されるが、これも監督は同作同様のマキノ雅弘、そして共同監督が萩原遼であった[7]。
東横映画の作品を配給するために東京映画配給(現在の東映)が設立されて1年半が経過しており、本作は東京映画配給が配給して、1950年(昭和25年)12月31日に公開された[1][2][3][4]。本作に「映倫番号」が付されているのは、1949年(昭和24年)6月14日に「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)が結成されたからで、1954年(昭和29年)8月まではレイティングは行われていない[8]。
1947年(昭和22年)、マキノ光雄に頼まれて東横映画の作品に出演。『三本指の男』『にっぽんGメン』がそれにあたるが、前者では金田一耕助を演じ、藤村大造と並ぶ当たり役として、東横時代に4本・東映時代に3本が作られた。後者は囮捜査官の活躍を描いたギャング・アクションの第1作で、東横で計3作のシリーズが製作された。
1948年(昭和23年)10月、大映京都撮影所で大映系映画館主大会が開かれ、社長の永田雅一は挨拶で「多羅尾伴内ものなど幕間のつなぎであって、わが社は今後、もっと芸術性の高いものを製作してゆく所存である。」と言及[10]。この発言に千恵蔵が激怒し、「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。大映との契約が切れたら再契約しない。」と言明し永田と千恵蔵の関係は決裂。これを機に比佐芳武らとともに東横映画への移籍を決意した。
同年に大映を退社。翌1949年(昭和24年)に東横映画へ移籍した。
1951年(昭和26年)、東横映画は太泉映画と東京映画配給株式会社に吸収合併され、東映株式会社に商号変更。千恵蔵は東映京都撮影所で市川右太衛門とともに重役スターとして活躍を始める。当時、千恵蔵は京都の山の手(嵯峨野)に住んでいた事から「山の御大」と呼ばれた(一方の右太衛門は北大路に住んでいたので「北大路の御大」と呼ばれた)。
千石纏=千石+纏
千石とはお米を選別する装置
纏とは町火消の旗印
お正月映画の企画ということでこの原作なのか。それとも映画公開前提のタイアップ企画された原作、新聞連載か。知らんけど出初式と相撲の春場所、おめでたい。
大映と切れて東映に鞍替えした大御所の門出を祝う企画?