未来予知が外れる理由 | 和のブログ

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今まで誰かに話そうという気にはなりませんでしたが、息子の死をきっかけに、ブログという手段で誰かに読んでもらうのもいいかと思い、はじめてみます。

 ファラオの見る夢のタイプは、少しお告げに近いものが感じられます。そして私自身にも共通して言えるのは、起こる事象に対し、恐らくはその時点で感じたことがイメージとして伝わるという点です。

例えば私の場合、死んだ息子の病状が悪化していき、やせ細っていく様を、学生時代に見た夢ではもう一人の自分を押し入れにしまい込み、次に帰って押し入れを開ける度、もう一人の自分はどんどんやせ細ってゆくといった具合に、未来が遠くなると具体的なビジョンより、その時に受けた印象や感情が映像に変化をもたらし不正確になってゆく、という具合です。まあ、単身赴任の罪悪感がそのまま押入に入れるという情景に変化したのだと思います。

 結論から言えば、宝くじが当たらない理由はここにあります、つまり未来や過去のビジョンを正確にビデオや写真のように伝えるのではなく、その時に見た感情や考えが夢に反映されてしまうのです。

 だからと言って、見ているものが全て不正確かといえばそんなこともなく、やせ細る息子の姿はかなり正確なビジョンでもありました。断片的にとても正確でもあるのです。

 しかしそれでは未来予知じゃない、と思われる方も多いと思います。そうです、正確な未来予知は不可能です。

 ここまで来て今更何だと思われると思いますが、未来予知と時間超越は実は大きく異なるのです。もちろんこれも経験値から。

 小さな事象を追いかけても、例えば現時点では宝くじの当選番号が10000だとします。しかし僅かな事柄で未来の当選番号は簡単に10002や9999に変化してしまします。宝くじのように番号一桁が重要なものでは小さな変化では済まされませんが、未来にとってこの程度のことはとても些細なことのようです。しかし私達はそれも未来と呼ぶ。

 当たり前と言われるかもしれませんが、未来の伸びてゆく可能性は無限にあります。一見すると時間とは普遍的な一本の線の上に過去と現在、そしてその延長線上に未来が存在すると思われがちですが、そこがそもそも違うのです。