レーニンの考えを歴史的にみてみると4つの大きな節目にわけられる。
 第1期。まずロシア共産党を創設したときには「民主集中制」という概念そのものがなく、あったのは「中央集権制」だけだった。ロシア各地に点在する「マルクス主義サークル」を一つにまとめることが党建設の最重要点だったからだ。また、過酷な帝政ロシアのもとで「職業革命家」の秘密結社として党をつくらなければならなかったためだ。(参照『何をなすべきか』、『一歩前進、二歩後退』)。
 「民主主義的中央集権制」(以下、民主集中制とする)という用語が初めてでてくるのは、1905年の第一回党協議会の「党の再組織」という決議。「協議会は、民主集中制の、争う余地のない原則を承認する」としている。しかし具体的展開はなかった。ロシア共産党は統一体を目指していたわけだが、実際には1903年にボリシェヴィキ派とメンシェヴィキ派の連合体として創設される。だから第一の節目は民主集中制とは何かが本格的には問題にならなかった段階といえる。

 「批判の自由と行動の統一」 
 
第2期 党がこのようにして結成されたのでボリシェヴィキ派の方針、政策、意見が多数を占めることもあるし、メンシェヴィキ派のそれが多数を占める逆の場合もあった。そこで民主集中制としてレーニンが打ち出した方式は「批判の自由と行動の統一」あるいは「決定後の批判の自由」というものだった。これが第2の時期だ。
 「批判の自由と行動の統一」とは、ボリシェヴィキ派が正しくないと考える方針が決定されたとしたら、それを克服するために「党の集会」だけではなく「大衆集会においても」また「出版物」でも「いたるところで完全に批判(する)自由がある」ということだ。ただ党を「分裂」させてはならず、決定に「矛盾する行動」を呼びかけてはならないとした(行動の統一)。これはメンシェヴィキ派についても同様にあてはまることだった。
 次の「決定後の批判の自由」とは、さしあたって「行動の統一」を必要としない諸問題について(例えば将来の土地所有形態の問題、いますぐ決定するわけではない武装蜂起の問題などで)「有害」な大会決定がおこなわれれば、決定後も「新しい大会決定」をつくるために「容赦のない思想闘争」、「もっとも広範な討論」が必要であるとしたことだ。そしてこれも民主集中制の「新しい原則」だとしている(「ロシア社会民主労働党統一大会についての報告」 同上、308ページ)。
 以上のことから日本でも数人の政治学者が「批判の自由と行動の統一」こそ「民主集中制」の要であると主張したし、現在でもこの主張はある。これにたいし「批判の自由と行動の統一」という定式は、レーニンが分派の存在を前提にしてだされたものであり、その後レーニンは1912年に「日和見主義的潮流全体」と絶縁した「新しい型の党」をつくることを目指すようになったとして、この定式を民主集中制の要とするのは誤りだとする見解が対置され、大きな論争になった。

「新しい型の党」ということについて

  第3期 1912年にプラハでロシア共産党第6回全国協議会が開かれた。そこでレーニンは「解党派メンシェヴィキ」を除名した。これが3つ目の大きな節目。
 1905年から07年にかけて第1次ロシア革命が敗北すると「ストルイピン(帝政ロシアの首班)の反動期」がきた。党と労働運動は徹底的に弾圧され党員数は激減した。こうした状況下、党をツァーリズムの許容する範囲内だけで活動する党に変え、党を事実上解体する「解党派メンシェヴィキ」が生まれる。レーニンはこういう分派をかかえた「共同戦線」的党ではきたるべき革命をたたかうことができないとして、彼らと絶縁することを決定する。これがレーニンの民主集中制をめぐる問題での大きな節目であったことは否定できない。しかし注目すべきことは、このときもレーニンは「党維持派メンシェヴィキ」は除名しなかった。ロシアにマルクス主義を最初に移入した有名なプレハーノフは、メンシェヴィキ派でしたが解党には反対した。レーニンは非常に喜びすぐ会いたいという手紙を送っている(『全集』第34巻 472ページ)。プラハ協議会は主要な分派である「解党派メンシェビキ」を除名したのであって「党維持派メンシェヴィキ」は除名しなかった。トロツキーも当時、基本的にはメンシェヴィキ派の立場で「分裂を超越した統一を!」をスローガンにしていたが、そのトロツキー派もそのまま党にいた。またボリシェヴィキ派内に生まれた「召還派」と呼ばれる極左日和見主義的分派(主導者・ボグダーノフの名をとってボグダーノフ派とも呼ばれた)も除名しなかった。レーニン自身がプラハで除名したのは「党を否定するような、そういう日和見主義」者であったと述べている。(「論争問題」全集⑲146ページ)、すべての分派を一掃する決定でなかったのは明白だ。
 ソ連共産党中央委員会発行の『ソ連共産党史』はプラハ協議会で「日和見主義者は一掃」され「党の真の統一がつくりだされ」、党は「新しい型の党」になったと書いている。そのため同協議会で「日和見主義的潮流全体」が除名されたかの印象をあたえたのだが、この記述は明白な歪曲だ。『レーニン全集』で40ページ近くになるプラハ協議会の諸決議・報告のなかに「新しい型の党」という用語はまったくでてこない。プラハ協議会後にレーニンが「批判の自由と行動の統一」を取り下げたということもなかったのだ。(つづく)