わたしは
本当に好きな人というか
この人とは言葉なしでも分かり合えるって思う人に対しては
喋らなくなる。
言葉を使うと逆に壊れてしまうものってあるでしょう
感覚的表現とかね
音楽や絵とか映画とか、すごいっておもったものにたいして
感動を言葉にしようとするとうまくいかない
あなたのことが好きって気持ちも、
言葉にするとものすごくシンプルでつまらないものになってしまうように感じる
もっと心の中にある伝えたい思いはいっぱいあるのに、
言葉にするとありふれてつまんないものになるよ
人生の中で「これだ!」って気づきがあっても、
言葉にするともう聴きなれた、古本屋の中から出てきたようなにおいがしてしまう
今この文章を書きながらもいらいらしてしまう
もっと表現力がほしいなっておもうけど
感覚の豊かさと比較しちゃえば、言葉にはあきらかな限界があるでしょ
でも最近わかったのは、
表現しなきゃ伝わらないってことがすごくたくさんあるということ
表現するのに一番わかりやすくて記号的で便利なのが言葉。
しぐさはすべてをサインだととらえるにはわかりづらいことも、感じ方の個人差もあるし
映画や演劇世界においては一挙一動をすべてサインだととらえるほうが、
理解が深まって面白いけれど
現実世界でのしぐさをすべてサインだと思ってしまうと生きづらいし
他人の顔色をみて生きるみたいになってしまって窮屈よね
好きなら好きって言わなきゃもったいないし
どうしようもない感動がぼんやりとしていても言葉というサインに変換されることで
その感動がそこにあきらかにそこにあるってことが伝わるなら
とりあえず「ここにあるよ」って伝えるために言葉は使おうかな
言葉はきっとそのためにあるんだよね
セーヌ川の流れのように穏やかに好きよとか
そんなふうにいったってイメージよりも先に不自然さが先行しちゃうでしょ 現実では
それが許されるのは小説の中だけ
好きよってことをまずことばにして
楽しいよってことを
気持ちいいよってことを
とりあえずはその感情の存在を教えてあげるね
言葉にすると簡単すぎてはずかしいけど
誰にでもそんなこと言ってるわけじゃないから
それは信じてね
言葉と、表情と、態度と、信頼かな
結局すべてはにじみでてしまうから取り繕うことはできないんだと思うよ
わかりにくいあたしからにじみでたそれらを
受け止めやすいようにはっきりとしみこませるから
両手できちんと受け止めてね
春の陽気みたいにね