前回、統一教会に触れた際、私が大学入学直後に当時の統一教会の活動方法の一つだった原理研の信者達と口論をした、ということを書いた。
その口論を懐かしく思い出したので、今回、その口論の内容を紹介しようと思う。
大学に入学してまだ間もない頃、教養部の建物の複数個所に原理研の勧誘ポスターが貼ってあるのを見つけた。原理研という名称そのものが初耳だったので、原理研とは何をするサークル活動なのだろう、と不思議に思ってポスターを眺めていた。
その姿が目にとまったのか見知らぬ学生から声をかけられた。といっても私は実家から遠く離れた大学に入学したので、その地には親戚も知人も一人もいなかった。
声をかけてきた学生は同じ大学の上級生のようだった。もし興味があれば話を聞きに来ないかという。確か午後の3時過ぎだったと思うが、その後は出る予定の講義もなかったので、おとなしくついていった。
天文同好会とかワンダーフォーゲル部とか、大学が公式に許可した部活動は大学の敷地内に部室があった。ところが私がつれていかれたのは、大学構内を出て歩いて数分の距離にある学生下宿の一室だった。つまり原理研は大学公認の活動ではないということだ。
その一室には既に二人ほどの上級生と思われる学生がいて、簡単な挨拶の後、私は彼らの一人おそらくはリーダーと思われる学生から説明を受けた。
勿論、その説明の具体的な内容や表現は、全く憶えていない。憶えているのはその概要だけで、それも現在の私の言葉で表現するしかない。その辺はご容赦願おう。なおそれに対する私の反論も同じだ。
その説明によると、原理研とは新興宗教の勧誘サークルのようなもので、その新興宗教が学生をターゲットに設定して勧誘し、信者になった学生にさらに他の学生を勧誘させるという一種のネズミ講のような組織になっていたらしい。
つまりその学生下宿の一室は、その学生リーダーの住居だったのだろう。
その時に私が聞いた説明の趣旨は、次のようなものだった。
科学には謎や問題が存在する。理論上の不明点とか未解決点、さらには複数の理論の間の対立点等だ。具体的には、宇宙創成の謎や量子力学と一般相対論の対立とか。これらは非常な難問でまず解決不能である。だからこれらの難問にこだわるのではなく、これらを神の領域に含まれる事柄と理解して、より具体的で解決可能な問題だけを考察の対象とすべきだ。その方が現実的で効率も上がる。あと私は関心がなかったが、カントの純粋理性批判に含まれる神の存在証明の不完全性に対する批判も述べられたように思う。
少し脱線するが、まずカントについて。純粋理性批判の中で触れていることは、神の存在証明であり、神が存在するとか存在しないとかに関しては何も言っていない。逆に実践理性批判の中では人間の不平等解消の為、神と死後の世界を要請しているはずだ。
私自身は神が存在しても存在しなくてもどちらでもいい。不平等に対しては、法律や基本的人権の上での人間の平等は当然だが、各個人で生まれつき顔や体型や才能が異なるように、遺伝子の不平等は明らかなのだから、その意味では無理に平等にする必要はない。個人に与えられた遺伝子をどう活用して世の中を渡っていくかに注力すればいいだけのことだ。そしてそれが多様な人物を生み出し、社会を豊かにする結果となる。だから神や死後の世界を要請する必要はないと私は思う。
仮に神が実在して、私を無神論者として告発し罰するとしても、それは仕方ないし、素直にその決定に従うしかない。勿論、私は神を見たこともないし神の声を聞いたこともない。実際にその姿を見て声を聞かない限り信じ難いのも確かだ。
個人的には、この宇宙には神も死後の世界も存在せず、量子論で表現される確率に基づいた現象が無数に生成して変化し消滅するだけだ、と私は考えている。
現象=量子情報であり、一般的に現象の変化により量子情報は保存されるが、宇宙の終末(ビッグフリーズ)の際には、量子情報を処理するエネルギーが失われ情報が凍結して意味をなさなくなり、量子情報自体が事実上消滅するはずだ。
宇宙の終末、核兵器の行使、自分自身の死等、この世界には個人では実質的に対応できないことも多く存在する。ただそれらは単に受け入れるだけでよく、何も思い悩む必要がないのは確かだ。
話を元に戻して。
この原理研の学生リーダーの説明を聞くと、よく考えて勧誘を受け入れるか考えてみます、と言って一旦は帰るのが普通だろう。ところが、私は説明がひと段落すると、すぐさま自ら発言を求めて、以下のように反論した。
確かに科学には非常に難解な謎や問題が存在する。しかしそれらの謎や問題は私が最も興味を惹かれる事柄であって、こだわりを捨てる気は全くない。仮にそれらが神に属する領域であっても、宇宙創成に対して神は具体的に何をどう実行したのか、神はどうして誕生したのか、神の誕生以前はどうだったのか等の問題を追求せずにはいられない。そしてそれらにこだわること自体が向学心や向上心につながる。
それ以前には、神なんてバカらしい、という漠然としたイメージはあっても、神や宗教に対する具体的な考えは持っていなかった。上記の反論は、説明を聞いて私が即興で考え出した結論といえる。
バカらしいという意味は、オウィディウスの変身物語(Metamorphoses)に登場する人間と同じ感情を持った神々や人が動物や植物に変異(メタモルフォーゼ)する話に対して抱く感慨に等しい。つまり、ンなアホな、という意味。
私は本当に低能な子供だった。中学三年になった時点でも、日本語の文章が正確に理解できているか自信がなかった。そこで安い文庫分を買い、毎日少しずつ読んで内容を理解する努力を始めた。日本語の文章を理解しその小説の背景や情景、登場人物の心理状態、今後の展開等を考える。それを毎日続けることにより、少しずつ読解力と思考力がついてきた。そして学校の成績が見違えるように上がった。
中学三年の頃に自分に読書を課さなければ、私は今でもマンガしか読まない低能な人間のままだっただろう。
文章を追いながら考えるという行為は、それ以後の勉強や仕事の効率をあげた。頭の中で同時に二つのことを平行して行うので、頭の回転を速くする訓練にもなったはずだ。
物理学専攻の学生だった頃は、講師の話を聞き黒板に書かれた数式や図形をノートに書き写す間に、=と=の間の数式の変形方法を頭の中で考えていた。またS社で設計のプログラマーをしていた頃、自分が書いたソフトウエアを商品化する段階で、品質管理部での評価後の会議で提出された評価シートを読みながら、自分のソフトのソースコードを頭の中で検討していた。
この原理研の拠点でも、説明を聞きながら、私個人はどう判断するかを考えていた。だから説明が終わるとすぐ反論できた。その後の私一人と原理研の数人の上級生との口論でも、私は自分を主張を変えずに、口論は平行線のまま終わった。そして私は二度とその原理研の拠点を訪れることはなく、声をかけられることもなかった。
さて、原理研や統一教会に限らず、もっと広い視点で宗教を考えてみよう。
まず、神について。
太古の昔から、人は雷や嵐や洪水や旱魃等の自然現象を神のなせる業と考えてきた。時代が進み科学技術が発達して、様々な自然現象が神とは無関係と解明されて神の支配する領域が狭くなっても、多くの人々が神を信じている。
それは神という超越的存在を仮定し人がその支配下にあると想定することで、一種の安定安心が得られるからだろう。つまり自分を神という頑丈な存在に連結する事自体に意味がある。そうしないと不安で吹き飛ばされてしまいそうだから。また神という鏡に自分を映して自己を分析し反省の材料とする機会もあるだろう。劣悪な場合では人はすべて細かく指示されないとすぐに迷ってしまうから神という絶対的な指令塔が必要となる。なお人間にとって神は乳を与え保護してくれる永遠の母親ともいえる存在で、神への憧れと信仰は哺乳類に特徴的な心理だとも考えられる。
私自身も神が嫌いではないし、神に対して恨みや劣等感を持っているわけでもない。
ただ私は低能な子供だったので、母に見られていると思うと、何かと批判されそうで不安で落ち着けなかった。それは神も同じで、一人の方が気楽で自由でのびのびと楽しめる。これは私の生来の性格だろう。それくらい私は変人なのだ。
結局、変人の私には神を必要とする理由が見つからない。
今でも神は世間や社会の色々な場面に登場するが、各個人によって神の定義は様々で多様だ。だから神が持ち出された場合、その人が何を言いたいのか判断に苦しむことも多い。また神には事態をより複雑に難しくする効果がある。なお特定の個人や団体が富と権力を得る為に神と信仰を利用する場合も少なくない。
民主主義、共産主義、専制主義、原理主義等すべての主義主張は、権力を得るための道具として使われてきた。それと同じで、神と宗教も富と権力を得るための最も有効な道具の一つといえる。
TVニュースによると、統一教会も霊感商法で大金を集め政治家に接近して、教会の利益を得るため活動していたという。集めた金を政治家への多額の政治献金に使い、様々な便宜を図ってもらったに違いない。
結局、神と宗教は邪悪な目的に利用される場合が多い。自爆テロはその最悪の例と言える。このような神はとても受け入れられない。
米国の資本主義は利益至上主義でもあり、利益至上主義に反対する勢力や集団が、米国の上流階級の宗教であるユダヤ教やキリスト教に対抗する宗教を団結の旗印にするという構図は理解できる。だがその対抗手段が武力の行使やテロ攻撃であれば、まったく容認できないのは当然だろう。
ヤーヴェ、エホバ、アッラー、呼び方は違うがすべて同じ唯一神だ。マホメットはイザヤ、エゼキエル、イエス・キリスト等が自分より先に現れた予言者に過ぎなくて、自身への啓示が最も新しい神の意向だと主張していた。つまり唯一神の解釈をめぐって様々な人間や民族が対立しているのが現実だろう。なおイエスを神と同列に置いているのはキリスト教だけだ。
唯一神を前提とする一神教では、その神を認め受け入れる必要がある。
ただこの昏迷した現実を考慮すると、神が存在するか存在しないかとは関係なく、私が一神教を信仰することは不可能だ。
勿論、環境としての宗教と信仰、つまり幼い頃から周囲に存在していた宗教や信仰という状況もあり得る。これにどう対応するかは個人の判断としか言えない。信仰の自由は当然の権利で、個人が何を信じようとその人の勝手なのだから。
なお私が一神教とは無縁の環境で育ったのは明らかで、それについては最後に。
次に、宗教の根本をなす教典について。
一般に教典は難解なので、具体的でわかりやすい例にしぼろう。新共同訳の聖書も持っているが、説明の都合上、岩波文庫の"コーラン"を開く。その食卓―メディナ啓示、全一二〇節―(上巻144ページ)には、
汝らが食べてはならぬものは、死獣の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ
(邪神)に捧げられたもの、…
とある。なお同じ文言がその牝牛―メディナ啓示、全二八七節―(上巻42ページ)にもある。牝牛は全体の要約や質疑応答といった感じの内容だ。コーランは不思議な書物で古く難解な文章ほど本の後部に置かれている。複数回受けた啓示から信者が理解しやすいように配置したのだろう。コーランはマホメットの体験を元に著された書物だが、マホメットの体験自体を云々するつもりはない。あくまで宗教的思想を表現している書物として、その思想そのものを理解したいだけだ。
啓示とは神の言葉、予言者マホメットが聞いた神からのメッセージ。
また啓示とは信者の行動を律する律法のような内容でもあり、ここでは食卓つまり食べ物について述べている。獣の死体は腐敗が進んでいる場合、雑菌の繁殖が心配される。豚肉には雑菌が多く必ず火を通して滅菌する必要がある。また血液の中にも細菌やウイルスが存在し病気に感染するケースが多い。つまり健康を維持する為、食物には気をつけよ、と読める。なおアッラー以降は宗教的手続きに関する内容でイスラム教の正しい手順を守るように求めている。
結局、手順を守って安全な食べ物を食べなさい、という神のお言葉で、これが教典のこの部分の真意といえる。
コーランに限らず様々な宗教の教典の大半が、その信者社会の安全と発展と幸福を目的としたものであることは間違いないだろう。少なくとも私が読んだことのある教典はそうだった。ただその為の手法は様々で、その宗教の個性が現れる。それを読み解くのが面白く読書の醍醐味といえる。それら宗教の内容を一言で表現すると、ユダヤ教は民族団結の為の宗教で、キリスト教は弱者に寄り添った宗教、イスラム教は"コーランか剣か"で代表されるように強者の倫理を表現した宗教だろう。なお多神教は多様で一言では言えない。
ここで私が教典の一部の内容を要約したわけだが、要約にはどうしても要約した人の主観が入る。そして主観の部分が多くなると教典を個人の都合のいいように曲解することになって、教典の本来の趣旨から離れてしまう。
これを批判したのが原理主義だろう。教典の原本の表現を厳密に守り、個人の主観を完全に排除する。つまり教典の文言の一言一句に忠実に従う。
しかし教典の文言のみに注意を集中して教典の真意を読み取ることを怠れば、その場合も教典から離れてしまう結果となるのではなかろうか。
例えば豚肉に完全に火が通っていて安全でも食べない。ところがBSEの牛肉も存在する。それが教典の手順の文言であるイスラム教の食肉処理方法に従っていれば、コーランにはBSEの牛肉の記述はないから食べていいことになる。この場合、教典の文言には従っても教典の真意には反する結果となってしまう。
過去に書かれた教典が未来の全ての事柄を網羅できるはずがない。教典の文言自体よりも教典が意味する真意の方が重要なのである。
結局、教典の勝手な個人解釈も教典の文言のみに従う原理主義も、正しい信仰とは言えない、と私は考えている。
つまり信仰には、中庸が一番大事なのだ。
最後に、宗教の救済について。
言うまでもないが、飢餓や貧困等の社会的問題に対して宗教団体が行う慈善活動に異論があるわけではない。私が考察するのは欧米や日本等の先進国の普通の人々に関する精神的かつ宗教的な意味あいの救済である。
人生には様々な問題が発生する。勉強や仕事は勿論、学校や職場の人間関係、親族や親しい友人の病老死等、無数に列挙できる。
その際、精神的に落ち込んで悩んだ末、解決法がわからず宗教的な救済に走る場合もあるだろう。その選択は個人の自由で、信仰によってやすらぎや精神的な安定が得られれば喜ばしことではある。
しかし本当に宗教的な救済だけでよいのだろうか?
信仰によって個人の心は救われても、個人を取り巻く現実は何も変わらない。それどころか現実に対して何も対策を施さないから、時間の経過とともに状況はさらに悪化する。結局、信仰による救済は、現実逃避でしかない。
私は何の才能もなく低能な子供だったので自身に読書を課した。記憶力が悪いので大学での専攻は記憶量が少ない物理学を選んだ。教員の採用試験に落ちると性格的に適合しないと判断してソフトウエアの仕事に方向転換した。ソフトウエア関連の仕事が年寄りでは困難と判断すると生活費確保の為、不動産賃貸への投資を始めた。
最後の住宅ローン返済の為の資金を外貨債権に変えていて、銀行と証券会社に円安差益への課税を理由に満期直前に債権を売却させられて元金割れが発生するという失敗をした。そこで次の外貨債権の満期時には多額の手数料を取ることしか念頭にない三井住友銀行とSMBC日興証券の社員達を完全に無視して、手数料が半額になる自分のパソコンでの外貨から円への換金を実行、住宅ローンを完済できた。
私の変人の性格では、結婚にも出世にも無縁だったが、悲観的にならずマイペースで暮らしている。
このように、私の今までの人生は失敗と挫折と諦めの連続だが、無益な宗教の救済には頼らずに、自分で判断して出来る限りの対策を施してきた。
それが生きるということの本質。そしてその意味でも神と信仰は不要なのだ。
ここまでは、一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、エホバの証人(ものみの塔という冊子を配布)や統一教会のような一神教から派生した新興宗教について考えてきたが、多神教になると少し状況が異なる。
多神教の在家信者にとっては、多神教は比較的拘束が少ない宗教で、自分で勝手に解釈したり、その様々な内容を個別に取捨選択することも出来る。
ヒンドゥー教の哲学者シャンカラの著書"ウパデーシャ・サーハスリー"には、自己の本質であるアートマンは宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という主張が含まれている。つまりヒンドゥー教もその思想は難解なのだが、思想は無視して、健康維持の目的でヨガだけを取り入れることも悪くない。
つまり自分の性格とライフスタイルにあわせて、生活を豊かにする為、自由に宗教を選ぶ、それが可能な時代になっている。
なお多神教やその新興宗教の中にも、宗教や信仰や救済を道具に使って、金儲けをたくらむ宗教団体が昔から数多く存在する。特に霊能力がある教主へのお告げとか先祖が犯した罪の減免や回向等の言葉が出てくると、確実に詐欺に等しい霊感商法だから、十分に注意した方がいい。
ウクライナ侵攻、霊感商法、振り込め詐欺、山のように届くフィッシングメール。
これらを考慮すれば、創造主の神にとって、人類は知性とモラルが低すぎる失敗作だろう。神も人と同じで失敗する、つまり神にも欠陥があることになる。その意味でも創造主としての神は実在しないと考える。でなければ失敗作しか創造できない神があまりに哀れだから。
私の実家は禅宗(臨済宗)の檀家だ。
臨済宗の経典である臨済録も難解な書物で、その文庫本や解説書も読んだが、よくわからない。ただ実家の葬式や法事の際に、子供の頃から必ず読まされてきた坐禅和讃は比較的わかりやすく、以下の文章から始まる。
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし、
ここにはヒンドゥー教のアートマンとブラフマンの関係と似た発想があるようだ。
一神教の言葉で表現すると、神と人は同一なのだから、特に信仰する必要もないし、教典にこだわる必要もない。神の本質ともいえる自身の良心と理性に従って、自分と他の人々の幸福を目指し最善を尽くせばいい、という意味になる。
神という絶対的な母性を必要とする一神教の信者はイヤがるだろうが、神から自立して根本的に発想を変え、自由にフレキシブルに神と人間と宗教等を捉え直すべきなのだと私は考えている。
何事も神のせいにしてはいけない。すべてが自己責任であり、個人の認識と判断と行動にかかっているのだから。