私は1957年生まれなので40歳に達したのは1997年だった。その頃、私は湘南テックでMPEGエンコーダーシステムの開発商品化の仕事をしていた。かなり多数の技術者が参加したプロジェクトで、私はWindows DLL担当だった。check out/check inでソースコードを管理するツールも使っていた。
ここでS社の状況の概要を説明しておこう。1980年代後半から1990年始めまで続いたバブル期、S社は利益率が低かったので株や土地に投資する額が少なく、その為、バブル崩壊の影響も少なかったが、90年代に入ると電機業界は構造不況業種に入り価格競争が激しくなった。S社は低価格化が苦手な分野であり業績は長期低落傾向となっていた。バブル崩壊後は多くの会社でリストラが行われた。S社はリストラはまだ実施されなかったが、90年代末には米国式経営への移行もあって、リストラがいつ開始されても不思議ではない、と私は感じていた。
少々脱線するが、ストア派の思想にプラグマ(事柄)とドグマ(考え)がある。例えば死は事柄でありそれ自体は恐ろしいものではないが、死は恐ろしくていやだと人は考えて、それが人間の行動を支配する。同様にリストラはプラグマでありそれ自体は何でもないが、リストラされ働けなくなると生活費が得られないと考えるドグマが人間の行動に影響を与える。結局、私は心配性だと言えるだろう。
30歳代を通じて、仕事での成功や出世、結婚、子供等の世間一般の幸福は自分には縁がないと諦めることにしたのだが、ではその後一体どうすればいいのか、という疑問が生じるし、何らかの対策を考えて実施する必要があるように思われた。私も、現実逃避しているだけではダメ、という意味である。
まず自分自身にとって何が一番大事なのか、という問題を考えることにした。
世間一般の幸福は除外するとして、仕事が大事か、趣味が大事か。私にとって仕事は生活費を得る手段でしかない。元々プログラマーの仕事自体には興味がないし、自由奔放なプログラミングが可能だった時代からOSや開発環境の知識が重視される時代に変わったことにより記憶力が劣る自分には不向きな状況となった。私の趣味である読書やテレビ、ゲームにしても余暇の娯楽に過ぎなくて、様々な対象を少しずつ楽しみたいだけで、それだけが重要といえるものは何もない。
結局、仕事も趣味も大事とは思えなかった。
では何が本当に大事なのか。もし私に夢があるとしたら、それは物理だけだった。才能の問題もあるが、その物理を大学四年間で諦めて就職したのは自活したかったからだ。その点を考えると、今後も人に頼らずに自活状態を続けていくことが最も重要と思われた。つまり自分がリストラされ働けなくなっても何らかの手段で生活費を得られるようにすることが私にとって最も大事なことだと判明した。
ただその手段が何なのかは不明だった。
1998年には本社圏にもどり、その後、2005年まで本社圏の様々な建物で勤務した。
1999年にIEEE1394規格を扱う部署に異動になった。当時、S社にはカセットテープに置き換わる書き換え可能な光ディスクにオーディオのデジタルデータを記録するMDという製品があり、CDとMDとレシーバーから構成されるセットにIEEE1394規格を採用してオーディオのビットストリームと制御コマンドをケーブル1本で結ぶ製品が企画された。私はレシーバーの中のIEEE1394チューナーコマンドを受信解釈する部分のファームウェアを担当した。それまで私は業務機器ばかり担当していたのでコンスーマー機器の開発商品化は初めての経験だった。
その1999年夏、私は休日の午後に、ちょっとした気まぐれで近所の新築マンションの販売会場に足を運んだ。一応説明を聞いたもののその時は買う気にならなかったので断ったが、秋に同じ営業マンから投資用のワンルームマンションを買わないかという勧誘があった。
考えてみると、ワンルームマンションのような不動産の賃貸収入がいくらかあれば、生活費として使えるかもしれない。私は一人暮らしだし既に世間一般の幸福は諦めているのだから、生活費も少額ですむはずだ。リストラされ働けなくなり給与収入がなくなっても不動産収入があればホームレスにならずに暮らしていけるだろう。
それに、その当時、私は控え目に言って3000万円以上の銀行預金を持っていた。
昔はマイカー、マイホーム、マイコースという言葉があった。このコースはゴルフコースを意味しマイコースはゴルフ場の会員権を指す。さらに休暇中の海外旅行も裕福の証拠。車、一戸建て住宅、ゴルフの会員権、海外旅行は勝ち組のステータスシンボルともいえるが、私は貧乏学生のような質素でシンプルな生活をしていて、出世や世間一般の幸福は勿論、勝ち組とも無縁だったから、車や一戸建てや会員権や海外旅行に金を使ったことはなかった。また一人暮らしで妻子もなくその分の金も不要。
加えて1985年に厚木工場から本社圏に異動した時、転勤扱いとなって千葉の船橋の借上げ社宅に住んでいた。また1994年に湘南テックに異動になった時も転勤扱いとなり藤沢の借上げ社宅に移った。この2回の転勤扱いはかなりの額の住宅補助手当として収入を増やす結果となった。出世とは無縁で基本給は低くても住宅補助手当は多かった。
また飲む打つ買うという表現がある。酒を飲む、博打を打つ、女を買うという意味だが、近年は女性がホストクラブで豪遊する例もあるので、女を買うは異性を買うという表現の方が適切だろう。博打を打つの博打はパチンコ、競馬、競輪、競艇等は勿論、株や債券や先物等の売り買いも含まれるかもしれない。この飲む打つ買うはストレス解消のために仕方ない面もあるが、出来ればそれらで金を使い過ぎないようにすべきで、私も肝に銘じている。
以上のような理由から私には十分な銀行資金があった。そこで1999年の10月に中古のワンルームマンションを現金で購入し、12月に50平米程度のホームタイプの中古マンションをこれも現金で購入した。勿論、住むためでなく賃貸目的で、これが私の不動産投資の始まりだった。
そのマンション購入に際して東京駅の八重洲口から歩いて20分程度の不動産屋さんのオフィスに何度か通ったが、バブル期に地上げされた後バブル崩壊後に資金不足となり放置されたままの廃屋や空き地が、道すがら所々に残っていた。当然、中古マンションもあまり買い手がなく比較的安価だったのだろう。
2000年には新築のワンルームマンションと中古のホームタイプのマンションを住宅ローンを借りて購入した。また自宅用の50平米程の新築マンションも住宅ローンを借りて購入した。当初、自宅を購入するつもりはなかったが、いずれ働けなくなった時に賃貸アパートより分譲マンションの方が毎月の出費が少ないだろうと思ったからだ。勿論、その住宅ローンを完済した後の話だが。また実家に戻った場合は、自宅マンションも賃貸できるという計算があった。
その為、2000年末には3件の住宅ローンを借りた状態で、その後半年ごとに利率が一番高い住宅ローンに対して、ボーナスを含めた余剰金で一部繰り上げ返済を繰り返すことになった。
仕事の面では、1999年には42歳となり大卒の新入社員とは20年歳が違うことになる。20年歳が違う技術者が同じ職場で一緒に働くのはやはり問題で、結果はともかく、開発設計部門以外に異動すべきだと判断した。そこで2000年春に自分から希望してユーザーサポート部門に異動した。自分の希望で異動したのはこれが最初で最後だった。
そのユーザーサポート部門で私は欧米の事業所からのパソコンのソフトウェア問題の受付窓口業務を担当した。英文の電子メールのやりとりや電話会議で英語で話す機会もあった。電子メールは頻繁に辞書を引くしかないが、英会話は自宅でTOEICの練習問題をこなしてもまず上達しない。電話会議でこちらが英語が苦手とわかれば、相手も気を遣ってゆっくり話してくれるので、それに期待するしかなかった。
ただユーザーサポート部門で本当に必要なのは管理能力や調整能力だ。また様々な人とのネットワークを構築するコミュニケーションスキルも必須であり人間関係が苦手な私にはまず無理なので、30歳代に予想した通り、ユーザーサポート部門への異動は完全な失敗だった。
2003年夏には、業務命令で地デジ対応テレビの部門に異動させられ、テスト信号を使った検証の仕事を担当した。結局、S社では開発設計商品化から検証、ユーザーサポートまでソフトウェアの一通りの業務を経験することになった。
その2003年からS社はリストラを開始した。いよいよ来るべきものが来たかという感じだった。その年私は異動したばかりで対象には上がらなかったが、翌2004年にはテレビ部門の赤字化もあり、2004年12月にリストラ対象となり翌年にはキャリア開発室に異動と宣告された。
ただ時期的には幸運だった。まだ退職加算金の申請が可能だったので、私は迷わずS社に残ることを諦めて加算金の申請をした。退職金と加算金の合計額から税金を引くといくらになるかを計算してもらうと、私の場合は2005年3月時点で勤続23年8カ月で約3600万円程度になった。その程度あればまだ残っている3件の住宅ローン全てを全額返済できそうだった。
2005年2月にはキャリア開発室に異動になり、3月末にはS社を円満にリストラ退職した。
これ以降の話は次回に。