固定電話の電話機に雑音が入るようになったので電話機を買い替えるとともにNTTのナンバーディスプレイの契約をして、迷惑な保険や墓地や不動産等の営業の電話と無言電話の着信を非通知を含めて拒否するように設定しました。今後もイヤな着信を受けるごとに着信拒否の設定を増やすつもりです。
最近、オンラインRPGのDQXに厭きてきたので、長期間放置していたRPGのLRFF13を再開しました。
LRFF13の当初の印象はバトルがアクションゲームみたいでゲーム内時刻に依存するストーリー展開とともに苦手で面倒なRPGという感じでした。ただ少し慣れてくるとバトルでは、敵の動きをよく見て敵の攻撃を盾を上げて防ぎ、敵の攻撃の合間に打撃や魔法でダメージを加えて、敵がノックアウト状態になったら一気に攻撃するという方法で倒せることが分かりました。的確な状況判断は必要ですがボタンの早押しもタイミングを図る必要もなく、アクションやシューティングが苦手な私でも出来そうです。
LRFF13のゲーム内時刻に依存するストーリー展開は攻略本を見ながら予め行動する内容を決めれば、計画的に遊ぶことにもつながります。
ストーリーも映像も音楽もDQよりFFの方がファンタジー色が強くて好きですね。LRFF13を上級者向けのRPGとすれば、DQXは初心者でも遊べる万人向けのお子様ランチ的オンラインRPGと言えるでしょう。
ただDQXにもまだログインしていて、日課の作業や新ストーリーをこなしてます。
そのDQXには書き置きという伝言機能があるのですが、以前、"個人的事情で…"という意味の書き置きを、"私情により…"と書いてありました。私情は私情のもつれという例からわかるように個人的な感情の意味で、個人的な事情ではありません。"私事都合により…"とか"私事により…"が正しい表現です。
明らかな文章上の間違いですが、若い人にはこの手の間違いが多いのでしょう。
私も中学生の頃は、文章表現どころか文章の意味さえ正しく読み取れなかったように思います。
私が通っていた中学校の正門には、宮沢賢治の"雨ニモマケズ 風ニモマケズ"の詩の文句を彫った石碑がありました。確か道徳の授業でもこの"雨ニモマケズ"の詩が取り上げられたと思いますが、石碑の印象が強かったせいか、私はこの詩の意味を"努力は必須"と解釈していました。
それから二十年以上を経たある日、たまたま暇で立ち寄った本屋で、この宮沢賢治の"雨ニモマケズ"の詩を眺めていると、"努力は必須"という意味の詩ではないことに初めて気付きました。
"雨ニモマケズ"の部分は病弱だった宮沢賢治が風雨にも負けない丈夫な体が欲しいといっているだけで、詩全体では、他の人の幸福を願って生きることが重要という主張になっています。
遺言で知人に法華経の経典を配るよう手配したほどの熱心な仏教徒だった宮沢賢治らしい詩ともいえるでしょうが、この他の人の幸福を願って生きるという生き方は宮沢賢治に限った生き方ではないと思います。私が高校生の頃に読んだドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟という小説の語り部であるアリョーシャの生き方もまた同じくこの生き方だったように記憶しています。ドストエフスキーも熱心なロシア正教の信者だったそうで共通点があったのかもしれませんね。
少々脱線しますが、ここで宗教や信仰について私自身の考えを簡潔に説明します。
大昔、宗教は思想と学問と技術を含んでいて政治・経済・社会と密接な関係があり、社会の慣習の意味でも、多くの人々が宗教に関わらざるを得なかったが、現代では宗教と信仰に対する個人の選択の自由が保証されています。
個人的な選択という意味では、この世界は謎や美や調和に満ちており、その説明の為に神やイデアや精神世界等の先験的かつ絶対的な存在を持ち出す心情は理解できます。また絶対的ないし超越的な存在には魅力があり、それを信仰することにより心の平安が得られるのも事実でしょう。
ただ謎や不安を含めてこの世界に存在すること、それが生きるということであって、絶対的ないし超越的な存在を持ち出す必要も信仰する必要もないと私は思うのです。
元に戻って、確かに宗教的な感じはありますが、神や仏や天国や地獄を抜きにしても、この他の人の幸福を願って生きるという生き方が、人として一番いい生き方だと今でも私は思っています。
ただ問題なのは、では具体的に何をすべきか、という点ですね。この点については"雨ニモマケズ"の詩にあるように、各自で出来ることをすればいい、ということでしょう。私の場合は日本ユニセフのマンスリーサポートプログラムに参加することが該当しますね。
勿論、誰かに知ってもらう必要は全くありません。"雨ニモマケズ"の詩にあるように、誰にも評価されず誰にも相手にされないとしても、自分が理想とする生き方を貫くことが最も重要なのだと思います。
しかし残念ながら日本では清貧や人類愛が評価されることはなく、外面や世間体が重視されます。多くの日本人にとっては他人にどう見られるかが最大の関心事で、それは私が一番軽蔑するところです。朝、駅のトイレの鏡の前で若い男性がしきりに髪をいじってる姿などは、如実にそれを物語っていますね。
最近、オンラインRPGのDQXに厭きてきたので、長期間放置していたRPGのLRFF13を再開しました。
LRFF13の当初の印象はバトルがアクションゲームみたいでゲーム内時刻に依存するストーリー展開とともに苦手で面倒なRPGという感じでした。ただ少し慣れてくるとバトルでは、敵の動きをよく見て敵の攻撃を盾を上げて防ぎ、敵の攻撃の合間に打撃や魔法でダメージを加えて、敵がノックアウト状態になったら一気に攻撃するという方法で倒せることが分かりました。的確な状況判断は必要ですがボタンの早押しもタイミングを図る必要もなく、アクションやシューティングが苦手な私でも出来そうです。
LRFF13のゲーム内時刻に依存するストーリー展開は攻略本を見ながら予め行動する内容を決めれば、計画的に遊ぶことにもつながります。
ストーリーも映像も音楽もDQよりFFの方がファンタジー色が強くて好きですね。LRFF13を上級者向けのRPGとすれば、DQXは初心者でも遊べる万人向けのお子様ランチ的オンラインRPGと言えるでしょう。
ただDQXにもまだログインしていて、日課の作業や新ストーリーをこなしてます。
そのDQXには書き置きという伝言機能があるのですが、以前、"個人的事情で…"という意味の書き置きを、"私情により…"と書いてありました。私情は私情のもつれという例からわかるように個人的な感情の意味で、個人的な事情ではありません。"私事都合により…"とか"私事により…"が正しい表現です。
明らかな文章上の間違いですが、若い人にはこの手の間違いが多いのでしょう。
私も中学生の頃は、文章表現どころか文章の意味さえ正しく読み取れなかったように思います。
私が通っていた中学校の正門には、宮沢賢治の"雨ニモマケズ 風ニモマケズ"の詩の文句を彫った石碑がありました。確か道徳の授業でもこの"雨ニモマケズ"の詩が取り上げられたと思いますが、石碑の印象が強かったせいか、私はこの詩の意味を"努力は必須"と解釈していました。
それから二十年以上を経たある日、たまたま暇で立ち寄った本屋で、この宮沢賢治の"雨ニモマケズ"の詩を眺めていると、"努力は必須"という意味の詩ではないことに初めて気付きました。
"雨ニモマケズ"の部分は病弱だった宮沢賢治が風雨にも負けない丈夫な体が欲しいといっているだけで、詩全体では、他の人の幸福を願って生きることが重要という主張になっています。
遺言で知人に法華経の経典を配るよう手配したほどの熱心な仏教徒だった宮沢賢治らしい詩ともいえるでしょうが、この他の人の幸福を願って生きるという生き方は宮沢賢治に限った生き方ではないと思います。私が高校生の頃に読んだドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟という小説の語り部であるアリョーシャの生き方もまた同じくこの生き方だったように記憶しています。ドストエフスキーも熱心なロシア正教の信者だったそうで共通点があったのかもしれませんね。
少々脱線しますが、ここで宗教や信仰について私自身の考えを簡潔に説明します。
大昔、宗教は思想と学問と技術を含んでいて政治・経済・社会と密接な関係があり、社会の慣習の意味でも、多くの人々が宗教に関わらざるを得なかったが、現代では宗教と信仰に対する個人の選択の自由が保証されています。
個人的な選択という意味では、この世界は謎や美や調和に満ちており、その説明の為に神やイデアや精神世界等の先験的かつ絶対的な存在を持ち出す心情は理解できます。また絶対的ないし超越的な存在には魅力があり、それを信仰することにより心の平安が得られるのも事実でしょう。
ただ謎や不安を含めてこの世界に存在すること、それが生きるということであって、絶対的ないし超越的な存在を持ち出す必要も信仰する必要もないと私は思うのです。
元に戻って、確かに宗教的な感じはありますが、神や仏や天国や地獄を抜きにしても、この他の人の幸福を願って生きるという生き方が、人として一番いい生き方だと今でも私は思っています。
ただ問題なのは、では具体的に何をすべきか、という点ですね。この点については"雨ニモマケズ"の詩にあるように、各自で出来ることをすればいい、ということでしょう。私の場合は日本ユニセフのマンスリーサポートプログラムに参加することが該当しますね。
勿論、誰かに知ってもらう必要は全くありません。"雨ニモマケズ"の詩にあるように、誰にも評価されず誰にも相手にされないとしても、自分が理想とする生き方を貫くことが最も重要なのだと思います。
しかし残念ながら日本では清貧や人類愛が評価されることはなく、外面や世間体が重視されます。多くの日本人にとっては他人にどう見られるかが最大の関心事で、それは私が一番軽蔑するところです。朝、駅のトイレの鏡の前で若い男性がしきりに髪をいじってる姿などは、如実にそれを物語っていますね。