絵を購入すると、販売元の会社から、各作家の最新作品や特集が載った冊子が年に4回届く。
毎回楽しみに、そして少しばかり怖々ページを捲っていくのだけど、今回は、私にとって何かを『みる』ことって、やっぱり難しいなぁと読んでいて痛感した。
最近、版画デビューをした作家さんで、とても美しい女性の絵を描く作家さんが居る。
作品は素晴らしいというか凄まじくて、この作家さんの作品に鼓舞される女性、作品を家に飾ることで活力が湧いてくる女性は、とても多いのだろうなぁと思う。
ただ、私は彼女の作品を見ているとき、美しさだけではない、作家さんが作品を生み出す上でのエネルギーの一部になっているマイナスな感情、みたいなものも強く感じてしまうから、本当に作品は素晴らしくて美しくて力強くて凄まじいのだけど、あまりたくさんの作品は見られないし、長く見ていることもできない。
展示会でも長くは見ていないし、SNSも、作品を見たいときだけ検索をかけて見にいくようにしている。
なんというか、圧されてしまうのです。
こういうのって、ただの気のせいか私の妄想かしらと自分を疑うことの方が多いのだけど、今回届いた冊子を読んでいて、どうやら気のせいじゃなさそうだということが判明して、「マジで絵、見れないじゃん」って思って軽くショックを受けている。
4枚も買ったのに。3枚も手元にあるのに。
日頃、生活している中で、こんな目は早く潰れてしまえばいい、と思うことが山ほどある。
というか、毎日思ってる、毎秒思ってるかもしれない。
見えなくていいものまで見える目。
知らなくていいことまで自分に知らせる目。
人が見てほしくないものまで、ちゃんと見える目。
絵の一枚を見るのでも、展示会の一つに足を運ぶのでも、いちいち、視力の調整が必要になる。
なるべく、見なくていいもの、相手が余り見られたくないと思っていそうなものは見ないように、見えても見て見ぬ振りができるように、視力の調整をしている。
情報っていうのは、自分の手元に届いたら、自分だけのものになるはずだ。
絵が自分の目に映ったら、その絵は自分だけの一枚になるはずだ。
ところが、私には絵の向こう側が見えてしまう。
どれだけ視力を落としても。
こんな不本意なことが、あるかなぁ。
絵が悪いんじゃない、私が下手なだけ。
情報を受け取るのが、まだまだ下手なだけ。
まだまだ練習して、いつかちゃんと、純粋に絵だけを、目の前のものだけを、見れるようになりたい。