五輪が「平和の祭典」であることを強調してノーベル平和賞をいただく魂胆が見ゑ見ゑのバッハIOCは、7月16日、広島市を訪れ、市民の反感を買っていた。日本人を「チャイニーズ」と言ひ間違えるオツムの持ち主であるから、歴史についても無知なのか、この日がどんな日か知らなかったやうだ。

 

 ちょうど76年前の1945年7月16日は、アメリカのマンハッタン計画初の核実験「トリニティ作戦」が「成功」した日なのだ。原爆が落とされた都市に、原爆が完成した日に訪れるといふのは、出来過ぎたブラックジョークだ。事前に誰も指摘しなかったのだらうか。

 

 以来、アメリカだけで1000回以上も核実験を繰り返し、世界中にプルトニウムやトリチウムを含む放射性物質をバラ撒いてきた。のみならず、原子力に関はる学者や軍は、市民たちをモルモットにして、無数の人体実験を数十年に亘って続けてきたのだ。

 

 今回は、世にも恐ろしい、この悪魔の所業を描いた大作『プルトニウム・ファイル』上下巻、アイリーン・ウェルサム(著)、渡辺正(訳)、翔泳社、をご紹介する。

 

大気中核実験:モルモットにされた兵士たち

 

  アメリカの核実験は、1945年7月のトリニティ作戦を皮切りに1962年7月まで大気中で行われ、その後は地下実験に移行する。大気中核実験は、17年で19の作戦が行われている。Ⅰ作戦当たり3発実験したとすると、約60発もの原水爆が、ニューメキシコ州やネヴァダ州を永久に汚染し、南太平洋の島々を吹き飛ばし、居住不能の世界に変へてしまった。

 

 軍幹部たちは、兵士たちが核爆発にどれだけ耐えて、戦闘を続行できるか知るために、爆心から数㎞地点に兵士たちを配置し、爆発直後に爆心地で軍事演習を行はせた。そんなことをしたら当然、外部被爆のみならづ内部被爆する。

 

 兵士たちは爆心地で外部からの放射能を浴びたばかりか、鼻や口、目や耳から体内に取り込んだ放射性物質のおかげで、体内から絶え間なく放射線を浴びて細胞が傷付き、胃腸や肺の粘膜が出血する。ひどい場合はがん化する。

 

 さうとも知らされなかった若い兵士たちは除隊後、発疹・水ぶくれ・アレルギーなどを発症し、毛髪や歯が抜け、吐き気に苦しむ。しかもそれがいつまでも続くのだ。数十年後にがんを発症して死んだ人も、子や孫にさまざまな病気が出たケース人も多い。

 

 しかし病気と核実験の因果関係を証明することができない。ほとんどの兵士にはフィルムバッジ(個人線量計)が配布されていなかったし、あったのは低感度のガンマ線検出器がほんの少し、といふ状況だった。これでは、アルファ線もベータ線も中性子線も感知できないし、公式記録に残る被曝量は、実際の被曝量に比べようもなく低くなる。前回紹介した福島の例とまったく同じ。

 

 キノコ雲の中を戦闘機で飛ぶ実験では、放射線のため計器が狂って、基地に帰還できづに、機からは脱出したが、放射能を遮るための鉛の肩掛けが20㎏以上あったために海中深く沈んで、還らぬ人となってしまったといふ例もある。

 

 閃光による失明の実験も行われている。広島原爆がピカドンと呼ばれているやうに、核爆発は初めに強烈な閃光が数秒続く。これを近距離から裸眼で目撃すると失明してしまふ。そこで軍は、何㎞までなら失明するかを人体実験しているのだ。

 

 爆心地から十数㎞の地点に、遮光万全のトレーラーを置き、被験者たちにのぞき穴から左目で閃光を見るやう指示する。すると網膜が焼かれ、盲点や瘢痕ができ、その部分の視力は戻らない。

 

 実験ではないが1953年5月、22歳のある中尉は、直視するなといふ命令よりも好奇心が勝り、塹壕の入り口で左肩越しに閃光を見てしまった。彼の左目網膜には一生消ゑない盲点ができた。2年後、眼科医が彼の網膜を診察する。そこにあったのは,、なんと「逆さキノコ雲」型の盲点だった。

 

 このやうに大気中核実験において被害を受けた兵士たちは数千人に上るが、正確な人数も被害の様相も不明である。

 

プルトニウム注射実験:モルモットにされた患者たち

 

 核実験による兵士や住民の被害は少しは知られているが、プルトニウム注射実験を知る人は少ない。プルトニウムは半減期2万4千年の放射性物質。その人体への影響を知るため、注射で体内に入れてしまはうといふのだ。もちろん本人の同意など得られるわけもない。だから「末期」の患者が狙はれた。

 

 1945年3月から46年10月。テネシー州オークリッジの陸軍病院、シカゴ大学ビリングス病院、カリフォルニア大学サンフランシスコ校病院などで、その数18人。

 

 著者アイリーン・ウィルサムの執念の取材で、18人のほとんどの姿が明らかになっているので、詳細は本書をご覧いただきたい。注射後数十年生き延びた人もいるが、大半は数十日から数か月で亡くなっている。ひどいものだ。

 

 中でも悲惨な例は、1946年8月26日に注射された、シメオン・ショーの例だ。まだ4歳で突然、骨原生肉腫と診断され、オーストラリアからアメリカへはるばる渡ったのに(当時どんなに遠かったことだらう)、「末期」だからと治療ではなくプルトニウムを打たれ、8か月後に亡くなっている。

 

 悪魔の仕業としか言ひやうがない。

 

放射性の鉄を飲ませる実験:モルモットにされた妊婦たち

  

 1945年9月から47年5月まで。テネシー州ナシュビルのヴァンダービルト大学病院で、その数829名。医師は「ちょっとしたカクテルですよ」と言って飲ませたといふ。

 

 すると、髪と歯が抜け、貧血になり、疲れが抜けなくなった。産まれた子どもは病弱で、目のない子が産まれた例もある。がんで早死にした子どもも多い。なんといふことだ!

 

 

その他のモルモットにされた犠牲者たち

 

 項目だけ挙げるので、ご自分で読むなり、調べるなりしてほしい。いづれもとにかく悪魔の仕業としか言ひやうがない。

 

・大気中核実験

 :モルモットにされた風下住民

・放射性物質を飲ませた実験

 :モルモットにされた孤児院の子どもたち

・全身に放射線照射実験

 :モルモットにされた患者たち

・睾丸に放射線照射実験

 :モルモットにされた囚人たち

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救ひはあるか

 

 以上全ての例に共通する構造がある。差別だ。どの例でも、強者が弱者に情報を与えづ、苦痛を押し付け、新情報を独占している。

 

 1993年、クリントン政権下でエネルギー省長官に就任したヘイぜル・オリアリーは、地下核実験を中止させ、「放射能人体実験」についての調査を始めた。多くの事実が明らかになりつつあった。希望の光が差した。

 

 しかし、闇は深すぎた。結論から言へば、誰も裁かれなかったのだ。あまりにも被害者が多く、犠牲が大きく、補償基準を作ることもできづ、全てを補償対象にするわけにもいかないので、結局全てを補償しなかったのだ。

 

原子力と人類

 

 原発は電気を作るために発明されたと思っている人が多いが、事実は違ふ。原爆の原料を作るためだったのだ。原発を動かしているのはウランやプルトニウムの核エネルギーだとお思ひだらうが、それは現象面であって、真実は違ふ。原発を動かしているのは、差別といふエネルギーなのだ。

 

 ウラン鉱山の労働者、原発の現場労働者、原発周辺の住民、放射性廃棄物処理施設周辺の住民、そして本書が明らかにしている無数の無辜の民。これらの犠牲がなければ成り立たない「産業」なのだ。差別を食ひものにしてこそ成り立つエネルギーなのである。

 

 人類は原子力とは共存できない。これを肝に銘じやう。

 

(2021年7月21日 深13号 お終ひ)