夏休みを利用して、書棚に積んだまま読まなかった本をすこしづつ読むことに決めました。

 

 

今日は中勘助『銀の匙』(1913)です。

 

 

 

 

小説の中身に入る前に、私が中勘助を知った事情を一言しておきます。

 

 

・・・・とは言ったものの、ついさっきまで、それは謎だったのです。どうも高校時代のグリークラブで、中勘助の詩による合唱曲を歌ったような記憶があるのですが、それが何であったか思い出せませんでした。

 

 

ネットで調べてみましたら、ヒットしたのは多田武彦の作曲になる男声合唱組曲『中勘助の詩から』だけでした。それを聴いてみましたが、どれも初めて聴く曲ばかりでした。

 

 

おかしいな、私の思い違いかな・・・・それにしては中勘助の名は随分昔から知っていたようであるし、知らないのだったら『銀の匙』が書棚にあるのが変だ。

 

 

そんなこんなをボケかかった頭で考えながら、とにかく小説を読み進めました。

 

 

中勘助(ネットからお借りしました)

 

 

 

『銀の匙』、いいですねえ。大変おもしろかった。←幼稚園児の感想かよ!

 

 

内容は、幼少年時代の思い出なのですが、全編を通して人の世の習いである「別れ」の悲しみ――しかもその悲しみを上手く口にできない少年の折り重なった悲しみ――が抒情豊かに描かれています。

 

 

中勘助にとって、「悲しみ」というものが自分の心の基調をなしていたかのようでもあります。14歳離れた厳格な兄とその友人に海へ連れて行ってもらったときの描写です。

 

 

お友だちはふりかえりふりかえりしてたがしまいに立ちどまって くたびれたのか、気分でもわるいのか と親切にたずねたので正直に

「波の音が悲しいんです」

といったら兄はにらめつけて

「ひとりで帰れ」

といって足をはやくした。お友だちは私の意外な返事に驚きながらも兄をなだめて

「男はもっときつくならなければいけない」

といった。

 

 

文弱といい蒲柳の質といいます。事実、中勘助はそうであったのでしょう。しかし、危機に陥った人間を最終的に支えるのは、弱さをとことん知り抜いた精神ではないでしょうか。私は、文学の究極的な意味をそこに見出だします。

 

 

 

ところで、私の「謎」を解くために、中勘助の詩集をざっと読んでみたところ、わかりましたよ!

 

 

『藁科』という詩集の中の「はつ鮎」です。(これ、はつこいって読んだ人いるでしょ? ぜったいいるから。WW)。

 

 

冗談はともかく、この詩に多田武彦が曲をつけたものを、高校のグリーで歌ったのです!(『藁科』という組曲になっているうちの一曲です)。確か県の合唱祭でも歌ったはずです。

 

(ネットからお借りしました)

 

 

 

「はつ鮎」は、語り手(中勘助)が鮎釣りをする人々にお願いをする形式をとっています。

 

 

よれよれの老人が鮎釣りを見にいくかも知れません。彼は年老いて病気持ちでみじめな人間なので、どうかお邪魔でしょうが釣りの様子を見せてやってください、というのです。

 

 

そして最後に、「彼は私の亡くなった兄です」と明かします。あの年の離れた、憎しみの感情さえ抱いていた厳しい兄(金一)のことなんですね。彼は、東京帝大医学部を卒業した秀才で、京都帝大福岡医科大学(後の九州帝大医学部)の教授であった人です。

 

中金一(ネットからお借りしました)

 

 

 

中金一は、人も羨むエリートコースを辿ったにもかかわらず、38歳という若さで脳卒中を患い、介護が必要な身の上になってしまいました。勘助が『銀の匙』前篇を書き始めた前年のことです。

 

 

その後、連れ合いに先立たれた兄を勘助は世話していたのですが、とても一人では介護できないと判断して、結婚をすることに決めました。57歳のときです。

 

 

しかし、結婚式の当日、何と兄は自宅の2階で首をくくって自死してしまいました。これは近年の研究でわかったことです。

 

 

兄としてみれば、赤の他人(勘助の結婚相手)に自分の介護をしてもらうことを潔しとしなかったのでしょうが、果たしてそれだけだったのか・・・・疑問は残ります。