北の関ヶ原最大の激戦地『長谷堂城』で最上の智将・志村光安が直江兼続を翻弄  | ナツレのツレヅレなる何か

北の関ヶ原最大の激戦地『長谷堂城』で最上の智将・志村光安が直江兼続を翻弄 

畑谷城を血祭りにあげ、周辺の城を恐怖のどん底に陥れ次々と自落させた直江兼続率いる上杉軍は、その勢いのまま山形盆地へ押し寄せる。二万余の大軍を従え、次の標的は山形城の前哨拠点、長谷堂城!

しかし、そこには最上義光が送り込んだ最強の武将・鮭延秀綱(さけのべひでつな)を従えた、智将・志村光安(しむらあきやす)が、鉄壁の守りを敷いて待ち構えていた……。

 

って、映画の煽り風な書き出しにではじめてみましたが(笑)、今回はその長谷堂城を前回の畑谷城につづきドライブで訪ねたさいの感想です。

■長谷堂城

長谷堂城は、山形市大字長谷堂城山に位置する山城です。低地との比高差は約85メートル。実際に現地を歩いてみると、まるで山城として造られるために存在しているような、急峻な地形に驚かされます。

現在は公園として整備されており、曲輪(くるわ)や山全体が歩きやすくなっています。山頂からは山形盆地を一望でき、その景色の素晴らしさは必見です。特に秋には、紅葉と共に彼岸花が咲き誇る幻想的な風景が楽しめるようです。

 

 

実際に訪れて驚いたこと

訪れてまず感じたのは、その規模の小ささ。正直、「ここで二万余の上杉軍を1,000人程度の籠城軍が撃退した」というのは驚きでした。そもそも重要拠点なのだから最上側も総動員兵力が1万にも満たないとはいえ、もっと兵力を割くべきだと思っていました。ところが、実際に現地をみたところ、これは確かに1,000人を収容するのが精一杯という狭さなのです。

 

 

車で畑谷城から山形盆地に出たときには、「これは上杉軍の勝利は確実だな」とさすが直江兼続だと感心するほどの地形的な優位性を実感しました。二万もの大軍があれば、長谷堂城を完全に包囲するのも容易で、北西の庄内方面からの増援とも合流し、山形城を攻め落とす構えを取るのも可能そうに思えます。

しかし、直江兼続が畑谷城を落とし、一挙に大軍を山形盆地へ侵入させた戦略こそ見事でしたが、長谷堂城早期攻略に失敗し全てが破綻することに……。

戦いの行方とその後

長谷堂城では最上軍の夜襲や奇襲により上杉軍の動きが拘束され、戦況が膠着している間に、米沢からの主要ルートに位置する月岡(上山)城を攻めた上杉別働隊が敗北。米沢からの補給確保が困難となり、直江兼続の戦略は修正を余儀なくされました。一方の最上軍も上杉直江軍の孤立化に成功しましたが、その兵力差から積極的な攻勢に出ることはできませんでした。

最終的に関ヶ原の敗報が届き、上杉軍は撤退を余儀なくされましたが、それまでに直江兼続がこれ程の兵力差と地歩の優位性を有しながら打開策を講じなかったことは、もう少し批判されてもいいのでは?と個人的には思います。

■今の長谷堂城

長谷堂城は、この合戦で全国的に知られるようになりましたが、その後やがて廃城となったため、遺構が良好な状態で残されています。戦国時代の山城としての魅力を感じられるおすすめスポットです。

 

彼岸花が見頃を迎える9月頃の訪問が特におすすめ!歴史と自然を楽しむ絶好の場所ですよ。ぜひ一度訪れてみてください♪

 

 

 

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・参考文献