​今日は日曜日。





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 こんばんは。今日は日曜日。世間が浮かれる日。誰だっけ日曜日とかいう概念をつくった人は。キリスト教の誰かかな?創世記1章:はじめに神は何とかをつくったとか言っていたような🗽(何をつくったんだったかなあ、調べてみよう)


 出でよ現代の神:Google召喚。(まあ1文字ずつ色を変えるって面倒くさいこと🗽)


 創世記1章1節:はじめに神は天と地とを創造された。(ほうほう( ・∇・))

 2節:ごめん、神🙏長いから割愛。(そしてすでによくわからない)

 3節:神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(かっこいいな😎明日朝起きたら「光あれ」って言ってみよう💡そして私も光になろうと思う🌟)


 それで日曜日はいつ出来るんだい?


 2章1節:こうして天と地と、その万物とが完成した。(シャキーン!創造完了❗️)

 2節:神は第7日にその作業を終えられた。(意外と長くかかったね。なんか本気出せば1日で出来そうなもんじゃない?まあいっか。)すなわち、そのすべての作業を終わって第7日に休まれた。(6勤1休?ブラック労働環境の創始しとる、、)


 地球が出来た記念日だから7日目やーすも!ってことね。神お疲れさま。


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 まあ良いんだけどね。1週間が7日でも。でも思わない?欲を言えば偶数の方が良かったなあって。2日に1回◯◯する!とかがわかりやすく組み立てられるやん。7じゃあねえ、どーにも割れない素数よ。今からでも遅くはないからさ。1週間を8日にして毎週3連休!とかに改心してくれないものかねぇ。



ニコニコ

 

 キリスト教で思い出した思い出話をしよう。もう10年以上も前の出来事だ。


 「私たち、この地域の大学を中心に集まって活動しているインカレサークルです。今週の日曜日、◯◯川の河川敷でバーベキューをやるんですが、どうですか?」


 そう声をかけられたのは大学に入学して間もなかった頃。文系大学生というのはとにかく暇なものなのだろうか。1年で取れる単位の上限まで授業を入れてもスカスカの時間割に困り果てて構内をひとりでふらふら散歩していた時に勧誘を受けた。


 暇すぎたのでどこでも良いから行く場所が欲しかった。何も疑わずに連絡先を交換して、週末の日曜日、指定された駅へと向かった。「少しここから離れているから」やってきたお姉さんは自転車を押していた。「乗って!」考える間もなく自転車の後ろに乗せられ河川敷へ。いくらボーっと生きていたとしても、このあたりで流石に気がついた。単なる学生団体だったとしたら、きっと自転車で新入生を迎えに来はしないのではないだろうか。まあ良い、バーベキューの参加費は無料だというのでとにかく行ってみることとしよう。


 時は流れ、、気がついたら毎週日曜日、教会に通うこととなっていた。スクリーンに映し出される本部からの映像。「神とかは特に信じていません」とは言いにくいため、みんなと一緒に神妙な顔をして講話を聞いた。映像の中で喋っているおじさんは何故か韓国語。調べるとネットでの評判はなかなかのものであった。


 キリスト教に興味はなかったけれど、何故かそこに通うことに楽しさを見出してしまった。そこに行けば色々な世代の人たちとの関わりが持てたから。神を信じるかどうかは別として、自己啓発まがいのありがたい楽しいように感じる話がきけたから。毎週日曜日は午前中の講話と祈りタイムが終われば、あとは楽しく食べて遊んでのパーティータイムだったから🎉 最初は日曜日だけだったけれど、そのうちに土曜日も、平日の夜も、最初的には朝も、、となりかなり入り浸っていた。そこで出会った人達と買い物に行ったり温泉に行ったりもしてそれは楽しい時間であったように思う。学校では友達がいなかったから。つくろうとすら思わなかったから。そこは素晴らしいサードプレイスとなっていた。


 イエスを信じて聖書の勉強に励んでいるということにさえしておけば、自分という存在を受け入れてもらえたのだ。条件付きであったとしても、自分を受け入れてくれる人たち、いつでも行って良い場所というのはとても居心地が良いものであった。


 韓国系の団体なので出てくるご飯は辛かった。辛いものは好きでないので毎回のように「また赤いよ!何でこんなに唐辛子を使うんだ🌶️」という文句は心の中で唱えていたが、「別にキリスト教徒になる予定はないのだけれどな」という一定の違和感さえおし殺しておけばそれ以外には特に問題はなように思えた。


 潮目が変わったのは、おばあちゃんが死んだ時。おばあちゃんのお葬式の日が、たまたまそのキリスト教の本部が大々的に主催する「絶対来てね⭐️」と言われていたイベントと重なった。普段の集まりならば行かなくても大丈夫ではあったが、そのイベントにはどうしても行かないとだめなのだという。だけどお葬式が入った。


 (映像ではいつも見ていたが)実際には会ったこともない教祖さんが出てくるイベントvsおばあちゃんの葬式。考える間もなくおばあちゃんの葬式の圧勝だ。「葬式入ったのでそっちに行ってきます!」その日の朝、電話をすると教会の人はうるさそうなので、メールを入れておばあちゃんのお葬式に向かった。案の定電話がガンガンかかってきたが、面倒なので無視をすることとした。教祖さんが出てくるイベントをキャンセルしたことに関して、ある程度申し訳なかったなとは思った。けれど何だかそれ以降、(聖書を読む限りイエスさんも良い人だったんだなーとは思う。でもいつも感覚としては歴史の授業をきいているのと同じようなもの。そういう人が居たんだへえとは思えど、信仰としては信じているわけではない。うん、つまりもう行かなくても良いかな。)となり、多少の紆余曲折はあったが、通うのはやめにした。その後、時期を少しズラして、ついでに大学にも通うのをやめた。(おい、大学はやめるなや笑)


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 何の思い出話だこれ。この出来事から得たことがあるとすれば、「仲間」って素晴らしいね。だけどそれが条件付きのものであった時、どうしても続かなくなってしまうものなのかもねということ。◯◯があるから仲良くなれるというのは一時的には楽しめる。けれど相手の示す条件を満たせなくなった時にどうなるのだろうという恐れを同時に抱えてしまう。悲しいねぇ。


 人は同じパターンを辿るもので。結局その後も、別の宗教団体の集まりに参加して友達をつくったり、ネットワークビジネスの勉強会に行きまくってみたりと家族や仕事以外での居場所や「仲間」をつくるために必死だった時期が長かったように思う。


 埋めたかった心の隙間が埋まったのはようやく最近のこと。タイトルの回収をしておくと、結局は人を助けようとか役に立とうとかするよりもずっと前に「自分を癒す」「自分の心の隙間を埋める」ことが必要なのだということで、自分はようやく最近それが埋まってきたなと思う。だから、過去のことを思い出してもマイナス感情や後悔が湧かなくなった。過去の出来事を思い出話としてそこから何を得たかということを考える材料には出来るけれども、もうそのドラマの中にハマって「あぁ辛かったな」「不幸だったな」と思うことはない。

自分で自分を癒した先で、そのあとでやっと人に対して何かが出来るようになるのだろうということだ。


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 大半の日本人と同じように、12/24には「クリスマスだ!クリスマスツリー」と喜びケーキを食べ、その翌週にはは除夜の鐘を聞き(ゴーン🔔)、初詣は(混んでいない時の方がが良いから若干時期をズラしはすれど)神社に行くよ!という宗教観⛩️ 。葬式は自分家の宗派も正直よく分からないけど、なんか坊さんがきてお経をあげてくれるから、焼香の仕方だけは事前に調べて参戦します🙏という純日本人的に生きている。


 神社仏閣という言葉があるくらい。神社もお寺もまとめてしまうのが日本人の感性だ。この区別しない感じが素晴らしい。


 日本人の宗教観のノリってさ、〈和食も中華もイタリアンもたまーに謎のアジア料理も美味しければ食べますよ、あーちょっと遠すぎて想像つかないのでアフリカ料理は要らないかなあっ、、〉みたいなものなんだよね。


 〈神道も仏教もキリスト教も良いところどりしておきますよ。あーちょっとイスラム教はよく分からないから遠慮しておきます、、〉的なね。


 どの宗教にもマイナス感情は抱いていないけれど、理解もしていないから、あんまり適当ことは書けないけどな。謎の戒律かけられて日常生活に支障が出なければさ、先祖を祀って、ついでにイベントとして楽しめるものは採用してさ、つまり何でも良いよー!受け入れるよー!ってことなんだよね。よく知らんけどな。

 

 だからその教会に行ってみるのもそんなノリの一環だった。週末の集まりとしての楽しみ。講話を聞いてあぁ神ってそういうこと。イエスってそういう人。みたいな知識レベルでの理解はするけれど、別に身を捧げます!とはならない。わざわざ「教え」を学ばなくとも、ふつーに楽しく暮らせていれば良い。そんなに学ぼうとしなくとも、ただ自然体で生きられたらそれで良い。


 もうそろそろ寝る時間になっています。ブログvs睡眠は考えるまでもなく睡眠が圧勝でしょう。私に最優先事項は睡眠なのでそろそろ眠ることとします。


 みなさん1週間お疲れ様でした。慌ただしくもう月曜日がやってきましたが、忙しいのもまた現代を頑張って生きている感が出るので結構好きでだったりします。


 おやすみなさい歩くハートのバルーン