駅降りてすぐにあるのが、

鵲森宮(かささぎもりのみや)、通称:森ノ宮神社です。
なつきんの日々
聖徳太子のお造りになった神社なんですって。
なつきんの日々


つづいては、玉造稲荷神社


そして
なつきんの日々
白光大神(はっこうおおかみ)

上町大地には道路の真ん中に大樹が残っていて、

ご神木として祭られている場所が数ヶ所あります。

白蛇を神使としてお祀りされています。


そこから

カトリック玉造教会【大阪カテドラル聖マリア大聖堂】
なつきんの日々

明治27年(1894年)

大阪玉造に 聖アグネス聖堂が建てられたが 

1945年の空襲で灰塵(はいじん)と化した。 

その後 仮聖堂が建てられ フランシスコ ザビエル来日400年記念の
昭和24年( 1949年 )に聖フランシスコ・ザビエル聖堂に引き継がれ、 

1963年3月に、 現司教座教会 「 聖マリア大聖堂 」 へと 生まれ変わりました。

なつきんの日々
「細川ガラシャ夫人」は、名前を玉といい、

永禄6年(1563)明智光秀の娘として生まれました。
16歳の時、今から約430年ほど前、

天正6年(1578)旧暦8月(新暦9月)、織田信長 のすすめで、

当時乙訓一帯を支配していた戦国大名で勝龍寺城主細川藤孝の長子忠興のもとに輿入れしてきました。

そして、一時期(2年間)ではありましたが、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごしました。
天正10年(1582)、父明智光秀がむほんを起こし、

全国を平定しようとしていた織田信長を倒すという、

日本の歴史上の大事件「本能寺の変」が起こりました。
信長を倒し天下人となった光秀は、以前からの盟友である藤孝・忠興父子に加勢を求めます。
しかし、先見の明のある藤孝・忠興父子は主人織田信長を倒した光秀のさそいをきっぱりとことわります。

その後明智光秀は羽柴秀吉との山崎の合戦で戦って敗れ、

一時勝龍城に逃げ込みますが、結局近江坂本城 に帰る途中戦死し、

その一族も坂本城とともに滅んでしまいました。
このことにより、玉は生まれたばかりの子供からも引き離され、

丹後の山奥深くの味土野(弥栄町)という山里に約2年間幽閉されました。

それ以後彼女の苦難の生活が始まります。
そんななかにあっても、身分の分け隔てを超えた人間愛、優しさといたわりの心を常に忘れず

持ち続けていたと言われています。
その後、幽閉を解かれて大阪城下玉造の細川屋敷に住むようになってからも、

側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷から外出が許されないなど

さまざまな困難があるなかで、彼女は心の平安をキリスト教の教えに求めて熱心に信仰し、

ついには洗礼を受け、細川ガラシャ(日本語で言えば恵みという意味)夫人と呼ばれるようになります。

しかし、豊臣秀吉の死後、再び天下が乱れ、徳川家康 と石田三成の対立が激化してきました。
石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、

これに従った細川忠興を始めとする大阪城下に屋敷を構える家康方の大名から、

人質を取ることを企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、ガラシャ夫人に人質になるよう強要しました。
ところが、彼女はこれを敢然と拒否し、屋敷に火をかけて最期を遂げました。
慶長5年(1600)7月17日、38歳の生涯でありました。

すぐ近くに
なつきんの日々
越中井(えっちゅうい)

留守中反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたが

ガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取囲まれぜひもなく家来に首を打たせ

家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています。


そして最後は
なつきんの日々
難波宮跡
なつきんの日々

大阪城の南、上町台地の法円坂一帯に広がる飛鳥・奈良時代の宮殿跡で、

国の史跡に指定。古代の都を知る手がかりとなる古瓦や土器、多くの建築遺構が発掘されている。


はじめて行きました。

広々として気持ちよかった♪


そこから見えたのが、
なつきんの日々
大阪城!!

神秘的~~~うっとり♪


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