「師弟の呼吸」
師の築いた大地を守るーこれが、山口の同志の胸に燃え盛る、弟子の誓いである。
広布史に燦然と輝く「山口開拓指導」。1956年(昭和31年)10月、11月、翌57年1月に、池田大作先生の指導のもとに実施された折伏・弘教の大闘争である。
直前の56年9月、恩師・戸田城聖先生は、池田先生に告げていた。
「山口県で指導・折伏の旋風を起こしてみないか」池田先生は即答した。
「はい、やらせていただきます。」
この師弟の呼吸こそ、大勝利の因であった。
当時、山口の会員は4百数十世帯しかなかった。
しかも、30弱の支部に所属する会員が県内に散在し、指導の手もなかなか入らず、それぞれが孤立している状況だった。
その山口で、池田先生は、文字通り「指導・折伏の旋風」を起こした。
先生は、つづっている。
「私は決断していた。断じて山口県を蘇生させてみせる!歴史に残る、広宣流布の人脈を作ってみせる!と。
会って、語る。
会って、悩みを聞く。
会って、励ます。
会って、指導する。
会って、共に祈り、御書を拝する。
直接会えなくとも、手紙等で、会ったと同じだけの誠実を尽くし切っていく。
私は、喜び勇んで、体当たりで毎日毎日を走りながら、飛びながら、勝利のために、建設のために、乱舞していった。
そして、『縁した方々を、皆、偉大な広宣流布の大闘士に育成していくのだ!』と、歓喜躍躍して、苦しみを楽しみに変えながらの人生を、自分の身で創っていった」
延べ22日間で、先生は山口の各都市を転戦した。その奮闘の結果、57年1月末には4000世帯を超えるまでに拡大した。
実に、約10倍の大飛躍である。
この被動は、中国方面のみならず、全国に広がった。拡大の勢いもさることながら、「広宣流布に立ち遅れた地域も、真剣にクワを深く入れれば、肥沃の大地とすることもできる」との”開拓魂”が、各地のリーダーの心にともったのである。
その後、山口の各地で地区が結成されていった。そして迎えた60年5月3日、第3代会長就任式となる本部総会で、待望の「山口支部」が誕生したのである。今月は、60周年の佳節となる。
支部結成に加え、5月は、山口にとって、幾重にも意義深き月である。
74年5月19日、第1回の県総会が、宇部市内の体育館で開催された。「団結と求道の山口」をスローガンに掲げた総会には、池田先生がメッセージを贈り祝福。
「本州の炎が、全日本の人々の希望の灯台となるよう、誇りに満ちて戦い前進していってください」と期待を寄せた。これが、5・19「山口の日」の淵源である。
ちょうど3年後の77年5月19日からは、4日間にわたり、先生の山口指導が実現する。
この模様は、小説『新・人間革命』第25巻「共戦」の章に詳しい。
翌78年5月には、18,19の両日、1年ぶりに山口を訪問した先生が、支部座談会等に出席している。その様子は、第27巻「激闘」の章で描かれている。