「烈風逆風に負けない不退の信念」
「いざ往かん 月氏の果てまで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」
就任式の会場に掲げられた恩師の和歌を胸に、私は、世界中を駆け巡りました。
今日の世界広布の発展は、ご存じの通りです。しかし、決して順風満帆の航海ではありませんでした。
むしろ、常に烈風逆風との壮絶な戦いの中で、毎年の「5・3」の節を刻み、粘り強く前進の歩みを積み重ねていったのです。
経文の通り、御書の通りの「猶多怨嫉・況滅度後」の避難中傷の嵐、三類の強敵からの大難の中を突き進む歳月でした。
これほど、事実無根の悪口罵詈を浴び続けた団体も個人もないでしょう。
また、破和合僧の悪僧たちによる宗門事件も勃発しました。
しかし「難こそ誉れ」です。
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との御本仏の御確信を拝し、恐れず、怯まず、獅子王のごとく、広布の大願に生き抜いてきたのが創価の師弟です。
だからこそ、妙法の無限の力を引き出し、広宣流布の堅固な基盤を築くことができたのです。
そして今、世界192ヵ国・地域の共戦の同志の勇気と智慧で、世界宗教の翼をいよいよ大きく広げているのです。
「詮ずるところは」と、一切の状況を転換しゆく起点こそ、「誓願」にほかなりません。
「開目抄」には、大聖人がただお一人、妙法弘通の大闘争に踏み出されるにあたり、自ら立てられた大願が示されます。
すなわち、「我日本の柱とならむ」 「我日本の眼目とならむ」 「我日本の大船とならむ」と。
「ちかいし願やぶるべからず」と言われた、この広宣流布の誓願こそ、いかなる大願にも屈服しない、法華経の行者の不退の証しであり、末法救済の御本仏の魂です。
「あえて悪世に願って生まれる」
法華経法師品には、如来滅後の世に法華経を弘める人は、実は悪世に願って生まれてきた偉大な菩薩なのであると説かれています。
この願いとは何か。「御義口伝」には、「大願とは法華弘通なり」と仰せです。
すなわち広宣流布の「大願」によって、あえて悪世に生まれてきたというのです。
「衆生を愍れむが故に」の「愍」の字には、「胸を痛める」という意味があります。
苦しんでいる誰かの身になって、わがことのように胸を痛める。決して高みからではない。
同苦であり、共苦です。同じ人間として、寄り添い、分かり合い、励まし合うのです。
そして、この菩薩たちが生を受けて妙法を「広く演ぶる」国土とは、南閻浮提であり、娑婆世界です。
【南閻浮提】-「一閻浮提」ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされた。このうち仏法に縁の深いのが南の閻浮提であることから、私たちが住む世界全体を指すようになった。
妙楽大師は、この法師品の文に依拠して、「願兼於業」の法理を明かしました。
「業」とは過去世の業因によって生じる国土が決まる「業生」を意味し、「願」とは菩薩が衆生救済の誓願によって、あえて悪世に生まれる「願生」を意味します。
【妙楽大師】-711年~782年。中国・唐代の人で中国天台宗の中興の祖。著書に「法華玄義釈籤」「法華文句記」「摩訶止観輔行伝弘決」などがある。
【願兼於業】-「願、業を兼ぬ」。本来、修行の功徳によって安楽な境涯に生まれるべきところを、苦悩に沈む民衆を救済するために、自ら願って、悪世に生れること。
法華経は、過去世からの「宿業」に縛られて生きるのではなく、誓願によって「使命」に生きることを教えました。
今ある境遇を運命だと諦めるのでも、全てが偶然だと虚無的になるのでもない。
自分はあえて願って生まれてきた、使命あってここにいる、と深く捉え返していくのです。
大聖人は、太陽のごとく末法の衆生の闇を照らす上行菩薩の御自覚を示され、弟子たちに仰せです。
「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり」
師弟の深き宿縁を自覚し、師の大恩に報いようと、共に広宣流布の誓願に生きていく。
そして、いかなる逆境にあろうと、宿命を使命に変え、人間として最も力強い生き方を貫いていく―これ以上に崇高な人生はありません。