「宗教観」「信仰観」の根本的転換
日蓮大聖人こそ真実の「法華経の行者」であることを宣言された、「開目抄」全編中の白眉の御文です。
先師・牧口常三郎先生も、戸田先生も御書に印を付され、まさしく身読し抜いていかれました。
戸田先生は、この一段を拝するに際し、ご自身も「広宣流布大願に命を捨てんと覚悟をしたもの」であるとの自覚に立たれていました。
そして、大聖人の”偉大なる慈悲””偉大なる確信””熱烈なる大衆救護の精神””ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気”にふれることを願われたのです。
苦闘を通して無限の可能性を開く これが日蓮大聖人の仏法
大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ、諸天の加護がないのか。なぜ、大難が襲い来るのか・・・。
「開目抄」では、これらの論難について、「詮ずるところは」の段までに、道理と文証による厳密な検証を通して、全て打ち破られています。
法華経は確かに、法華経の行者の「現世安穏・後生善処」を、また諸天の加護のあることを説いています。
【現世安穏・後生善処】-法華経薬草喩品第5の文。法華経を信受する者は、現世では安穏な境涯となり、未来世においては必ず善処に生まれるということ。
しかし、真実の仏法は、諸天の加護を待ち焦がれ、頼みにするような宗教でも、超越的な力への”おすがり信仰”でもありません。
何があろうが、万人成仏の法たる法華経を信じ、妙法弘通の誓願に生き抜き、いかなる過酷な環境をも包み返していく。
そこには、宇宙の根源の法に則った、凛然と「一人立つ」人間の魂の勝ち鬨が轟いています。
そうであってこそ、諸天をも揺り動かし、真に現世を安穏ならしめることができるのです。
これは、宗教観、信仰観の根本的転換といってよいでしょう。
過酷な試練に直面して、「結局、人間は何も出来ない」と、現実逃避など、人々を無気力にしていく宗教もあります。
そうではなく、いかなる理不尽な苦難があろうと、「それにもかかわらず、人間はさらに強くなれる」「いな、だからこそ、苦闘を通して無限の可能性を開くのだ」と励ます。
これが日蓮大聖人の仏法です。法華経の行者の大獅子吼たる「詮ずるところは」との仰せから、そうした人間精神の究極の底力が排されてならないのです。