先日、ニュースサイトで沖縄の小学生が「宿題が嫌だから」という理由で登校を拒否している
というニュースを見た。
実際にユーチューブで彼がアップロードしている動画やツイッターを見たところ事態はもうちょっと込み入っていたみたいでした。
そのニュースを見て改めて、スマホで調べれば簡単なことは殆どわかる今の時代に、なぜ学校に行くのか、なぜ勉強するのかについてちょっと考えてみました。
まず一つは情報の精査に必要だからだと考えます。
情報化社会と呼ばれ、様々な情報に対して簡単にアクセスできますが、それらはあくまで誰かが「事実を編集・改変した産物」としてそこに姿を現しているだけであって、
「事実」の正体ではありません。
端的に言えばバイアスというものがかかってしまいます。
それは人が事実を目撃した段階から始まると考えます。
例えば誰かが誰かを殴った事実を目撃したとします。「殴った」という事実だけがそこに残りますが、
これは「道徳的な真実」とは限りません。
殴った人物は私がそれを目撃する前に一発食らっていたかもしれません。
もしかしたら見えないところにもう一人敵がいて2対1で戦っていたかもしれません。
へたくそな例えですが、「事実」を見て「真実」を突き止めることはほぼほぼ不可能で、
ましてやその事実を他人に伝えようとするとき、そこにも何らかの情報の欠落が存在します。
これは変えられません。
むしろ欠落していない、真に完全な情報などありはせず、
起こった事象を「情報」と位置付けた段階でそれらの崩壊はすでに始まっており、
その崩壊を止める術などないのだろうと考えます。
そこで大事になってくるのが、「情報の補完」という作業なのかと。
欠落した情報をカンペキに補完することなど不可能ですが、
どれ程カンペキに近づいたか否かでその情報の価値が決まると。
しかしそれを答え合わせする術などはないので、永遠の補完作業が行われるのです。
それを高い次元で行うことで、その情報を持つ者のそれに関する価値観や考え方を左右するのは言うまでもないでしょう。
その「情報の補完」の作業を行う際に必要になってくるのが「疑うための視点」であり、それらは読書などで自発的にキーワードの収集を行うか、誰かからそれらを教えてもらうしかないのです。
まず、疑うためのキーワードを知らなければ、疑う糸口を知らなければ疑うこともできないという道理です。
(知らないことは疑わない。っていう某課長のやつです笑)
そのために勉強しているのかなと。
「これは生物学的に見たらどうなるんだ」とか「これは論理的に考えてどうだ」とか
論理的な思考なんかは日々の勉強で培われるものだと感じます。
これが僕の最も納得のいく「勉強する意味」でしたとさ。
刹那的に情報に触れる現代社会において、すべてを素のままに信じてしまうと大変なことになるというのは、想像に難くないかなと。
日本も結構やばいんじゃないか見たいな空気が満ち満ちている今日、
何が「正しくて」何が間違っているのかという、不毛な努力を不毛とわかりつつ続けなければならないのだろうなと常々感じます。
(現実世界の事象において正しい、正しくないという二者択一的な選択肢を設けること自体が「疑わしい」という意味で)