1988年
すでに日本の新聞でも報告されているように、その実力度のほどは、今季も二ケタ勝利をあげた西武・郭源治に勝るとも劣らないものがある。と現地でも評判だ。178㌢、78㌔と、上背はそれほどないが、ガッシリとしたバランスのとれた体つきは、ロッテの荘勝雄をさらにたくましくした感じだ。右腕から投げ込む速球は150㌔台をマーク。加えて、フォーク、スライダー、シュートといった変化球も投げ分ける完成度の高さも、プロ野球の即戦力として魅力タップリである。1976年にグアムで行なわれたリトル・リーグ極東選手権では、調布リトルチームのエースだった荒木大輔(ヤクルト)と投げ合って敗れたものの、その素質は、当時から大いに注目されていた。「日本のプロ野球を最初に意識したのは、荒木がドラフト1位でプロに入ったのを新聞で知ったときですね。ボクは大学(輪仁大)へ進んだわけですが、荒木がプロに入ったということで、少しは身近に感じたというか…陳義信投手)プロ入りに関しては、阪神、中日の間で激しい獲得競争が繰り返されているとのことだが、ソウル五輪終了後には、その存在が、日本球界からマークされそうだ。本人も「泰源さん(西武)はどのくらいのスピードボールを投げるの?152、3㌔ですか。ボクの方が自信ありますよ」と心臓の方もまさにプロ向き。
1989年
腕前の方は、実に常時速球が145㌔前後出るという義信。そこへ切れのいいスライダーと、食い込みのいいシュートを持っている。だれに聞いても、台湾ナショナル・チームのエースは陳だという。今、ヤクルト、オリックス、阪神の激しい争奪戦の真っただ中にいる郭建成も言った。「義信がいるから、ボクは、とうとうオリンピックで投げる機会がなかったんだ」その大エースが中日に入団することになって、この日の記者会見では当然台湾の記者から「なぜ、外人の多い中日に行こうと思ったのか」という質問も出ている。球団としては当初、浜松秋季キャンプから参加させるつもりでいた。が、ビザの関係で来日が今月二十日過ぎに延びたため、予定は狂ったが、実はこの義信に対し、球団は十二月から村田トレーニングコーチをマンツーマンでつけさせ、徹底して鍛えていくことになった。
中村からもらったウイニングボール。義信は大事そうにボストンバッグにしまい込んだ。「まさかこんなにも早く勝てるとは?」驚きにも似て目をパチクリさせる表情は初々しい。そこへ星野監督から祝福の手が伸びた。台湾から右も左も分からぬ日本へ来て、公式戦わずか3試合mで味わう勝利の快感。囲まれた大勢の記者団にたどたどしい覚えたての日本語で熱い胸の内を語った。「タイヘン、ウレシイ!」「アリガトウゴザイマス」日本語にはまだ自信がないため、伝えきれない喜びは身ぶり手ぶり。でもインタビューで振りまいたのは世界共通の笑顔だった。出番も早かった。杉本があっさりKOされ、継いだ上原にも代打が出て、一挙に逆転した四回。三者凡退に仕留めたが、五回には一死後、ポンセに四球を与えて2安打で満塁のピンチ。「真っすぐを狙い打たれている。どうしよう」ナインとも胸の内まで言葉は通じない。孤独のマウンドで不安が頭をもたげたところへ、後ろから一人の男がポンと肩をたたいた。落合だ。前日も四回一死満塁となったところで背番号6が声を掛けている。来日前、日本のプロ野球選手で知っていたのは落合だけという義信には何ともうれしく、心強かったことか?すると、どうだ。ウイニングショットのシンカー気味に落ちるシュートがさえわたる。88年イタリアの世界アマ選手権で最優秀選手に輝いたときの必殺技だ。代打・片平晋のバットは141㌔のシュートに鈍い音を立て(左直)、高橋雅も137㌔のシュートで右飛に打ち取った。「前半あれだけ打った大洋をよく止めた。満塁のピンチでも代える気はなかったよ」と星野監督。異国の地に来てつかむ自信は、二十五歳、怖さ知らずの義信をたくましくさせる。大量点をプレゼントされたこともあったが、マウンドで跳びはねるように打者をなで切る同じ台湾生まれの郭源治の姿がダブってしまうのだ。八回まで5イニングを3安打無失点。堂々たる勝利投手だ。「でも、ボク、まだまだ勉強しなきゃいけないこと、いっぱいあるよ」と義信は反省も忘れなかった。力だけで抑えられるアマチュアの世界や二軍と違い、投球のクセとかクイック投法など、確かに課題も多い。しかし、守護神・郭の復帰の見通しが立たない今、助っ人に昇格した義信の欲は大きい。「ゲンジさんが出てくるまでもう一つ勝ちたい」そして初めて覚えた日本語で締めくくった。「ガンバリマース」力強い響きに聞こえてきた。
1989年
「先発投手から直接、中西へつなぐ。ウチにはこのパターンしかないな」指揮官はこう嘆く。確かに今季の中西は、昭和六十年の球威、キレを取戻した。6試合に登板して2勝1セーブ、防御率は1・54。だが、先発が崩れ始めるゲーム中盤を任せられる中継ぎ陣が弱いため、接戦で競り負けるケースが多い。そこで注目を浴びているのが、ルーキーの渡辺だ。渡辺は7試合に登板。いずれも2回以下のショートイニングだが、計7回投げて被安打3。防御率2.00は堂々たる成績だ。しかも三十一打者から14個の三振を奪っているミスターK。直球は140㌔ほどだが、速度差のある二種類のカーブに、フォークを駆使して、左打者も十三人完ぺきに抑えてい る。「どうして三振取れるのかって?僕にも分かんないですよ。甘いボールもあるのにねえ」渡辺は不敵な笑みを浮かべる。
1989年
宮下といえば、塁上に走者がいないと、なるほど150㌔前後の目のさめる速球を投げた。が、走者をみたとたん大きく減速したものだが、この日の直球はほとんど140㌔前後。いわゆるノーワインドアップでも安定した速球を投げられるようになったことが変身その一なら、その二は本邦初公開のナックルボールの披露だろう。速球とカーブ。この2種類しかない宮下の課題は、落ちる球、つまりフォークかナックルボールの習得に尽きた。ここでナックルボールを選んだ宮下は、二軍での調整で見事に変身したのだ。速球を投げるときと変わらぬフォームでナックルボールを投げることに成功。その証明がヤクルト打線に対し、5回まで1安打無失点というピッチングだった。ノーワインド アップでも球威は全く落ちず、加えて速球と同じ腕の振りで魔球をビシッ。あの星野監督が、ヤクルトにぶざまに負けた試合後、いった。「きょう(の収穫)はは宮下だけや!」