前回で書いた「詩人」の祖父には三人の遺児がいて、そのうちの一人がわたしの実母である。
ただ、詩人のDNA、というようなものがあるなら母には遺伝しなかったのだろう。
何しろ、ユーミンの「あの日にかえりたい」の歌い出し、
泣きながら ちぎった写真を
手のひらに つなげてみるの
を聴いて、
「後でつなげるくらいなら、最初からちぎらなきゃよかったのに」
と、つぶやいたような人だから。
「いや、その矛盾こそが魅力なんですけど」
と言い返したりしたけど、考えてみたら、この歌い出しって行動を伝えただけである。
「泣きながら写真をちぎった。
手のひらでそれをつないだ。」
子どもたちの作文指導について、
「気持ちを伝える前に事実をきちんと書く」
ことが大事だと言われる。たしかに、わたしもそう思う。
例えば、
「体育大会で徒競走に出ました。一位になって嬉しかったです。」
もいいけれど、
「体育大会で徒競走に出ました。一位になりました。自分の席までスキップして戻りました。」
と、事実と行動だけ、を書いたほうが、その子なりの嬉しさがより強く伝わる。
だから
「一位になったとき、どんな気持ちだった?」
とたずねるのもいいけど、
「一位になったとき、どんなことをした?」
とたずねると、もっといい表現を引き出せるかもしれない。
ただ、実際にはそんなにうまくはいかなくて、
「一位になったけど、うつむいて席に戻った」
と書いたりする。
そうなると、辻褄が合わない。指導は少しややこしくなる。浮かれすぎて先生に叱られたなど、何か事情があるのかもしれない。
指導としては、
「一位になってどんな気持ちだったの?」
「嬉しかった」
「じゃあ、嬉しかったことが伝わるように書いてみようか」
みたいな流れでまとめるのが適切なんだろうけど、思いがけない事実が書かれた作文も、わたしはわりと好きで、読みながら悩んでそのうち笑ってしまったりもする。
たしかに、
「あー、この課題だったらあの事実を書けばよいのだな」
というふうに、器用に「事実」を選んで書ける子は優秀だと思う。けれど、
「事実を書いたらいいのよ」
と言われて、本当に「事実」だけを書いてしまう純粋さも捨てがたい。
母の、「あの日にかえりたい」の歌い出しを聴いて、事実のみ率直に受け止めてしまうところも、
まぁ、純粋だからよいのかな。
「詩人の娘」にしては単純すぎるように思うけど。