夏が来れば思い出す♫『坊っちゃん』、映画では坂本九主演作品(1966年)しか観たことはありません。

   ところが、あの昭和の大スターも演じたというからには、DVDを探さねばならないでしょう。

   第3回「ナポレン大賞」は、私にとって憧れの俳優である池部良さんで決まりです。

   そもそも、7歳にして初めて観た映画が『妖星ゴラス』で、池部さん演じる博士が怪獣マグマに襲われそうになる場面で思わず「逃げて!」と館内に響くほど絶叫、周囲の大人に笑われた苦い思い出がよみがえります。

   さらに、息子の名前を付ける時にいろいろな参考書を読んだ中、「池部良という名前は、祖父が『巳之助』と名付けようと急いで役場に向かう途中、石につまずいて転倒。ふと見上げた薬屋の看板『良薬は口に苦し』で閃いた名が良だった。」(ある本を要約)

   これには後年「巳之助でなくてよかった。この名前ではスターとして売れなかっただろう。」と、述懐しておられます。

   主演された志賀直哉原作の『暗夜行路』には鳥取県の名峰大山が登場、少ないながらも読んだ日本文学の中でベスト10に入る名作です。

   もちろん、これらが縁で「困ったときは最良の方策で切り抜けるように。」と、息子に命名したことは言うまでもありません。

   それでは、池部さんの映画誕生秘話『21人の僕』を拝読しながら、業績を振り返ってみましょうか。

 

★★★★★★★映画『妖星ゴラス』(1962年)★★★★★★★

※私見怪獣ベスト3(1位:マグマ 2位:マンタ 3位:モゲラ)

 

★★★★★★★映画『坊っちゃん』(1953年)★★★★★★★

   小説の中で坊っちゃんが赴任したとき、

   「汽船がブゥーと言うとは、言わんじゃろ。ブゥーと汽笛が鳴るのじゃろうが」と言って考えこみ、

   「どうすれば汽笛が言うのを映画的表現に出来るのじゃろか」と悩み半日海岸にしゃがみこみ、その間スタッフと僕は腕組みをして待った。

   「監督、とにかく、何か汽笛みたいなものを鳴らしておけば」と言ったら、

   「池部君、疑問は完全に追及して解決しなければならんじゃろが」と叱られた。

   坊っちゃんが学校へ通っていたある日、大町という町で蕎麦を食べる。

   「漱石の小説の中で確かに蕎麦を食べる、とあるんじゃが四国辺りは蕎麦よりうどんが本場で名物。うまいはずじゃ。坊っちゃんが東京の蕎麦を懐かしがるのは解るんじゃが、じゃが四国の松山となればうどんの方が現実じゃろ」と監督はセットの隅に行き、近眼の眼鏡を外して親指の腹でレンズを拭きながらしゃがみこんだ。

   またしても半日、30人のスタッフと僕は腕を組んで監督が解決するのを待った。

   やっと蕎麦で撮影を始めたが5時間前に小道具さんが注文しておいたざる蕎麦だから、すっかり伸びて箸で掬おうとしたら中華まんじゅうみたいな塊りになって持ち上がり、とても粋な食べ方とはいかなかった。

   坊っちゃんが初めての宿直の番、蚊帳の中に生徒のいたずらでいなごを何十匹も入れられびっくりする場面。

   「なんでバッタなんか、僕の床の中に入れた」「バッタた何ぞな」と生徒。監督はうーんと唸った。

   「このセリフは変じゃろが」と言う。

   「何がです」と僕。

   「物理学校を出ているほどの坊っちゃんがバッタもいなごも見分けがつかんのは変じゃろが」

   「いや、東京の人ですからバッタもいなごも一緒くたなんですよ」

   「池部君はものごとがいい加減でいけん。だから芝居も中途半端なんじゃろ。バッタは直翅目、バッタ科、体は細長く後脚が発達して跳躍に適している。いなごも目、科は同じじゃがバッタより小さく体長3センチ、触角は比較的短い、第一腹節部に聴器がある。漱石はバッタもいなごも見分けがつかんのじゃろか」と腕をこまねいた。

   この時は半日ではなかったが4時間、僕もスタッフも待たされた。

   坊っちゃんが下宿をおん出て新しい宿を捜すため、人力車に乗る。そんな場面。

   「人力車を柳すれすれに通してキャメラの前で左に折れてくれんじゃろか」と監督。

   「え?でもキャメラ前で左に曲がったら川に落っこちちゃいますよ」と車夫役の俳優さん。

   「おお」と天を仰ぎ「曲がれんじゃろか、川に入って走れんじゃろか」

   「監督、冗談じゃないすよ。人力車ひっくり返して良ちゃんも僕も溺死ですよ」

   「うーん、どうしても曲がれんじゃろか。いい絵の構図なんだが」

   監督は眼鏡を外し目を閉じて川のふちにしゃがみこんだ。

   新たな構図が生まれるまで6時間。ということで撮影は滞り、滞りして終了。

   僕としては江戸っ子坊っちゃんの「粋」さに欠けたのが淋しかったが、だからといって監督が京大卒、山口出身、謹厳実直と非難するつもりはない。

 

★★★★★★★映画『暗夜行路』(1959年)★★★★★★★

   ある夏の話だが、軽井沢の由緒ある旅館に独りで10日ばかり泊まったことがある。

   3日目の昼下がり、隣の座敷からなんの断りもなしに唐紙を音を立てて開け、背の高い、白い口髭、顎髭の立派な老人がぬっと入ってきた。

   「宿の主人から聞いたんだが君が高名な二枚目の映画俳優の池部良君かね」と言う

   高名で、二枚目とは恐れ入りくすぐったかったが、確かに池部良に相違ないから「そうです」と答えたら、

   「私はシガだがね」とおっしゃる。

   「は?どちらの、何をしておられるシガさんですか」と返したら、

   「志賀直哉という者だがね」と言う。

   驚いたの、なんである。志賀直哉といえば文学の神様だ。

   神様がご降臨なさっているのだから改めて驚き直し「失礼いたしました」

   それがご縁で、『暗夜行路』の映画化権を頂くことができたことも事実である。


★★★★★★★映画『昭和残侠伝』(1965年)★★★★★★★

   昭和39年の夏、

   「夜分、おそくすんまへん。あたし東映でプロデューサーをやってます、俊藤と申します」

   「実は東映名物のやくざ映画も近頃種が尽き、昭和残侠伝と銘打って、高倉健でシリーズものを造りたいと思うてます。そこで、池部はんに高倉を支えてやってもらえまへんやろか。慈善事業のつもりで出てもらえまへんか、ギャラは糸目をつけまへん」

   「僕は、今、日本映画俳優協会の理事長を務めています。理事長が、やくざじゃ示しがつきません」

   とお断りしたら、翌日から夜討ち朝駆けで俊藤さんは尋ねて来る。

   来て会えば涙をこぼし、涙こぼるる演説をした。

   5日目、遂に陥落。但しと条件を付けさせて貰った。

   入墨は入れないこと。ポスターに僕の顔写真は載せないこと。一話読み切りにしてラストでは毎回、僕は死んでしまうこと。

   条件は呑んでくれたが、ギャラにしっかり糸目がついていたのは残念なことだった。

   感激したこととして、全学連の学生諸君がこの映画を観、声援してくれたことだった。

   彼らの起こしたデモや暴力沙汰に非難や批判するところがあったにせよ、社会のルールを守らず腐敗して行く為政者、知識人への戒めともとれる抵抗の行動だったことは疑う余地もない。

(池部良『21人の僕』)