花園城/埼玉県寄居町 | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

花園城は山内上杉家重臣・藤田氏歴代の居城でした。
杉山城や菅谷館にも引けを取らない、素晴らしい城跡ですラブラブ
訪問日は2021年2月23日です。

花園城【1】

地図を見ると花園城の南東の麓に「善導寺」があります。
でも、現地を訪ねるとその前に「藤田」と付きます。
お察しの通りで、創建も中興も藤田氏が関わっています。

【位置・再】花園城
別ウィンドウで表示

ここもこれが欲しくて、かなり久しぶりに訪ねました。
藤田善導寺の裏から登れるかとも思いましたが・・・
以前と同じ、お寺の西側にある①の諏訪神社から登城しました。

花園城【2】①
諏訪神社

線路沿いの道から見た諏訪神社です。
鳥居が目印です^^

花園城【3】①
3 諏訪神社

城跡までは、社殿右脇から目印のピンクテープが続いています。
前回訪ねた時には踏み跡がうっすらで、結局竪堀を直登でしたが・・・

花園城【4】②
4 竪堀

神社背後から西へ水平に進むと、この竪堀に行き当たります。
前回はこの堀底を落ち葉や枯れ枝を掻き分けながら登りました。
今はこの少し手前に、竪堀に沿って堅い踏み跡が上まで続いています。

花園城【5】③
5 竪堀が2本に分岐

ピンクテープの踏み跡を登ると、上の方で隣の竪堀に合流します。
ここ、二重竪堀だったんですねラブラブ

花園城【6】③
6 竪堀と切岸

正面には、竪堀の奥に土の壁が見えます。
いよいよ城域に突入です。

花園城【7】④
7 東から3番目の堀切

土の壁手前で堀は右へ曲がり、さらにカギ形に左へ曲がります。
その曲がった先が、こんな感じになっています恋の矢恋の矢恋の矢
山の中で見る堀切としては、かなり長い部類に入ります。
しかも、掘った面は岩が露出しています。
相当な難工事だったと思われます。

花園城【8】⑤
8 曲輪

堀切は、奥から左右へ上れるようになっています。
まずは右(東側)へと上がりました。
曲輪内部は、いつもの光景です。
この写真を見せてどこか当てられたら、超ツワ者ですね!

花園城【9】⑥
9 東から2番目の堀切

上がってきた堀切のもう1つ東側にあるのがこの堀切です。

花園城【10】⑦
10 一番東側にある堀切

そして次の堀切です。
間の曲輪内部の様子は割愛しますクローバー
ここも岩盤を頑張って掘った様子がわかります。

花園城【11】⑧
11 上から見た竪堀

この堀切は、そのまま南斜面を下る竪堀となります。
見える限り、ずっと掘られています。

花園城【12】⑧
12 下から見た竪堀

花園城は、南側の斜面に腰曲輪があります。
その腰曲輪の脇まで下りて来て、振り返って見た竪堀です。
本当に真っ直ぐで、敵の進路をここに限定するかのように見えます。

花園城【13】⑨
13 竪堀

竪堀からやや草深めな腰曲輪を西側へ進むと、竪堀の所で終わります。
竪堀の向こう側にも腰曲輪が続いています。
この感じは、天神山城の腰曲輪とよく似ています。

花園城【14】⑨
14 曲輪南側の石垣

下の腰曲輪から城塁を見上げると、上の曲輪の石垣がよく見えます。
高さは1メートル程で、豊織式のものとは違って土止めのようです。

花園城【15】⑩
15 一番東の堀切の東側

14→10へと竪堀を登り直し、さらに東側へ進んでみました。
上の面は削平されていて、曲輪のような感じになっています。
しかし、ここから先には堀切は無く、やがて道は右(南)へと曲がります。
地図を確認したら、丁度善導寺の真上辺りでした。

花園城【16】⑪
16 東から3番目の堀切(7の反対側)

城内の真ん中に上がって東へ進んだので、今度は反対側へ。
上がってきた堀切を西側へ!

花園城【17】⑫
17 東から4番目の堀切

曲輪内部はどこも代り映えしないので、飛ばします♪
次の堀切も、ガッツリ岩場を掘り砕いています。

花園城【18】⑬
18 東から4番目の堀切

少し下のココが一番固そうな感じです。

花園城【19】⑬
19 主郭南側の石垣

この曲輪も、外側から見ると端っこが布積みの石垣で補強されています。
端っこに行くと、見に下りた跡があるのでわかりやすいです。

花園城【20】⑭
20 城址碑

かなり広い曲輪の端の方に、これがあります。
基本的に手付かずの城跡ですが、ちゃんとあります。
城跡の保存方法としては、かなり理想的だと思います合格

花園城【21】⑭
21 城址碑のすぐ西下にある横堀

城址碑のすぐ西側が崖のようになっています。
そこから下を見ると、城塁に沿って横堀があります。

花園城【22】⑮
22 城址碑のすぐ西下にある横堀

下りてみると城塁は岩盤で、その脇の土塁っぽいのも岩でした。
石を積んだものだと石塁と呼びますが、この場合は何と呼べば・・・?w
とにかく、岩盤の足元を掘って横堀にしてあります。

花園城【23】⑮
23 主郭の西側

西側には、数段の曲輪があるようです。
2段目の右側にうっすらと虎口っぽさはありましたが・・・
目立った堀や土塁などは見当たらず、城域はここまでのようです。

花園城【24】⑯
24 竪堀

登城口へ戻ろうと、先ほどの横堀に沿って進みました。
横堀は右へ曲がり、そのまま竪堀となります。

花園城【25】⑯
25 竪堀

下まで進んで振り返るとこんな感じです。
登ってきた時と同じように、土の壁が前方を塞いでいます。
でも、ここは登って来た所とは別の場所です。
GPS無しで登ると、城のどの辺なのかがわからず混乱しそうです。

花園城【26】⑰
26 竪堀

竪堀はここでも真っ直ぐ下っています。

花園城【27】⑱
27 石垣

南側の腰曲輪でも石垣が見られます。
ただ、上の曲輪とは積み方が異なります。
もしかしたら畑だったのかもしれません。

花園城【28】⑲
28 横堀と石垣

腰曲輪の下の横堀から曲がって竪堀になる所です。
ここは登ってきた竪堀に入る所で、来た時とは反対の左側です。
その足元にも石垣がありますが、入口を固める虎口だったのでしょうか。
それとも、この上に小屋を建てていたのでしょうか。
もしかしたら、ここも畑だったかもしれませんが・・・


城内散策の様子を動画にしてみました。


◆歴史◆

藤田政行により築かれたとされます。

藤田政行は猪俣政家の子で、平安時代の人物です。
保元の乱(1156年)に源義朝方として活躍しています。
その居城として築いたのが花園城とされます。
藤田政行の嫡男・藤田行康は源頼朝方として、一の谷で戦死。
その嫡男・藤田能国が領地を安堵されています。
1221年の承久の乱では藤田能兼とともに北条得宗家方として活躍。
文博士として院宣を読み上げており、文武両道の武者だったようです。
藤田一族は浄土宗に帰依し、持心が藤田派を起こしました。
その子・良心が、今も城の麓にある善導寺を創建しています。

藤田重行が天神山城に居城を移しました。

藤田重行は大石定久とともに、山内上杉家の重臣でした。
その山内上杉家では、上杉憲政と上杉憲寛が家督を巡り争いました。
この争いは1531年、上杉憲政が勝利しました。
藤田重行は上杉憲政方として、秩父地方の攻略に当たりました。
そしてその勝利後、秩父往還沿いに根古屋城と要害山城を築きました。
根古屋城は後の天神山城で、白鳥天神宮の背後の山に築かれました。
藤田重行は天神山城に居城を移し、秩父統一の拠点としました。

藤田重行が北条氏康に降伏しました。

1547年の河越夜戦で、上杉憲政が北条氏康に敗れました。
上杉憲政の勢力は上野国まで後退し、後北条軍が武蔵各地を攻略。
藤田重行は大石定久とともに、後北条軍の軍門に降りました。
この時に両家とも北条氏康の子を養子として迎えています。
ただし、藤田氏を継ぐことになる北条氏邦は1548年生まれです。
藤田重行が後北条氏に降ったとされる1549年でも1歳です。
藤田氏は1560年、長尾景虎が関東に攻め込んだ際に従っています。
そのため、本拠だった天神山城が後北条軍により攻め落とされました。
そして、北条氏邦が天神山城に入ったのは1564年です。
藤田氏が天神山城や鉢形城を明け渡したのは、この頃と思われます。
本拠を明け渡した藤田氏は用土城に移り、用土姓に改めています。

用土姓に改めた後も、藤田氏邦のもとで活躍したようですが・・・
1578年、用土重連は上杉家から沼田城を奪いその城代となりました。
藤田氏邦はこれに激怒し、用土重連を毒殺してしまいます。
北条氏政は用土重連の弟・用土信吉をその後任にしました。
用土信吉は兄の死の真相を知ると、身の危険を察し武田家に鞍替えします。
藤田家嫡流の人物が居なくなると、藤田氏邦は北条姓に復姓しています。

1590年、廃城になったと考えられます。

豊臣秀吉が後北条家を討伐し、北条氏邦の鉢形城も攻められました。
天神山城にも守将が置かれており、花園城も同様だったと思われます。
北条氏邦は1か月の籠城した後開城し、豊臣軍に降伏しました。
鉢形領の各城も同時に開城し、廃城になったものと考えられます。
北条氏邦は戦後、徳川家康の助命嘆願により前田利家預かりとなりました。
この時、上杉家臣となっていた藤田信吉も助命嘆願したとされます。
加賀に移った北条氏邦は、1597年に50歳で没しています。


所在地:埼玉県大里郡寄居町末野 GPSログダウンロードページ

埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示