秩父氏館/埼玉県秩父市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

秩父氏館の跡地は、小学校になっています。
訪問日は2021年2月13日です。

秩父氏館【1】
①南西の校門

秩父氏館のあった場所には、小学校と幼稚園と保育所があります。
その南西の入口がココです。
館の門もここにあった?かもしれませんね!

秩父氏館【位置】

山でも迷うような場所でもないので要らないかもですが・・・
地形を伝えるには良さげなので貼ります。
地図を見ていると、吉田川が蛇行した内側にあるのはわかります。
しかしそれだけでなく、南側も同様に大きな谷で隔てられています。
地図ではのっぺり描かれますが、等高線が付くと少しリアルになります。

秩父氏館【2】
②小学校の校門

秩父氏館の標柱やら説明板が小学校にあるというので訪ねました。
遺構は絶望的なので、せめて記念碑的なものを見たかったです。
どの辺にあるのかは???でしたが、偶然ここに辿り着きました。
お休みの日なので入れないと思ってましたが、門が半開きです。
これは入ってもいいの?という感じです。
門の近くには受付に寄るよう書かれていました。
ならばと勇気を振り絞って中へ進みました。

秩父氏館【3】
説明板を拡大表示

すると、入ってすぐ右の所にこれがありました。
門が半開きだったのは、見学する人への配慮でしょうか。
見たいのはこれだけだったので、写真だけ撮って退散しました。

秩父氏館【4】
④南側の深い谷

小学校駐車場の南側には、横一線にフェンスが巡っています。
その向こう側には、かな~り深い谷があります。
先輩方の書かれた「秩父氏館」を漁ると「神田堀、やまめ沢」が出ます。
吉田川はわかるのですが、神田堀とやまめ沢がそれぞれどこなのかが?です。
紹介するなら正しい名前を載せたいと思うのですが・・・
とにもかくにも、秩父氏館は吉田川と深い谷に囲まれています。

秩父氏館【5】
⑤南側上空から

そんな様子を見たくて、ここでも空を飛びました^^
まともに飛べるのは、広々として冬は何も無い南側です。
南側の神田堀?やまめ沢?(どっち?w)が、えぐい程ザックリですラブラブ


◆歴史◆

藤原秀郷の陣である鶴ヶ窪城があったとされます。

藤原秀郷は関東武士のヒーローですが、ここに来たことがあります。
それは平将門が起こした乱の鎮圧のためで、940年の出来事です。
下総で平将門を討ち取った藤原秀郷は、秩父の平将平を討伐に来ました。
しかし、平将平は山城の石間城に立て籠もり、頑なに抵抗しました。
そのため、藤原秀郷は鶴ヶ窪台地に陣を置き、じっくり腰を据えたのです。
激戦の末に平将平を討ち取っています。

秩父氏が一時本拠としました。

秩父氏は、1023年に藤原真枝を鎮圧した平将恒を祖とします。
平将恒はこの功により武蔵、上総、下総、駿河に領地を得ています。
かなり大きな乱だったようですが、ググってもあまり出てきません。
この後、秩父郡中村郷に拠点を移して秩父姓を名乗るようになります。

秩父将恒の母は平将門の娘・春姫です。
秩父将恒の父・平忠頼は、平将門とは従兄弟でした。
そして、従兄弟と対立した平繁盛を仇敵と呼んでいたそうです。
尚、兄・平忠常の子孫が長尾氏となります。
秩父将恒は源氏の先陣を務め、前九年の役で戦死しています。

その子・秩父武基が秩父別当となり吉田郷に拠点を置きました。
場所は鶴ヶ窪台地・・・ではなく、ちょっと南西の牧林とされます。
秩父武基は、年次は不明ですが謀反の噂により佐渡に流されています。

秩父武綱は祖父同様、源氏の先陣として前九年・後三年の役で活躍。
源頼義から「奧先陣譜代ノ勇士」として白旗を与えられています。
この白旗が、後に子孫が源頼朝に仕える際に役立つこととなります。
秩父武綱は武蔵国留守所総検校職に任命され、強大な武士団を形成。
鶴ヶ窪台地に館を築き、本拠地としました。
その子孫は畠山氏、河越氏をはじめ、関東一円で栄えることとなります。

畠山重忠により若宮八幡宮が勧請されたと伝わります

気になって『新編武蔵風土記稿』秩父郡巻之十五 下吉田村の所を見ました。
すると、若宮八幡宮の所に文字がビッシリ書かれていました。
そこには、畠山重忠が鶴岡八幡宮を勧請し鶴窪八幡宮と号したとあります。
その後は長過ぎて読みませんでしたが・・・

古城址の所には「小名町にあり、秩父武綱の城跡と云う」があります。
この続きは「八幡社の条に出せり」とあり、先程の神社につながります。
この次に陣屋跡が続き、同じ「小名町にあり」と書かれています。
こちらは江戸時代に年貢を集める場所だったようですが・・・
『新編武蔵風土記稿』の取材時点では、村民の畑となっていたそうです。
伝承レベルですが、以後は城として使われなかった可能性大です。

その後の秩父氏

秩父武綱の子・秩父重綱も、秩父郡吉田郷を本拠としたとされます。
しかし、その子が畠山重弘と河越重隆です。
両名とも、拠点とした畠山荘・河越の地名を姓としています。
しかも、家督を巡って争い、勝利した畠山重弘が本拠地を継いでいます。
その地が、吉田郷ではなく大蔵です。
秩父氏は、豊かな軍事力により東へと勢力を拡大。
そのためか、秩父の外側に拠点を置くようになったようです。
秩父牧があるので一族が居たと思われますが・・・
歴史の表舞台には登場しなくなります。

戦国時代には、北条氏邦の家臣として秩父孫次郎の名が登場します。
秩父氏が畠山氏と河越氏に分かれてから300年以上経っています。
この頃、犬懸長尾氏や丹党の一族も秩父姓を名乗っていたようです。
ググって見つかるのは秩父孫次郎ですが、鉢形城三の丸に館がありました。
秩父「孫次郎」の名前がいかにも長尾一族っぽいのですが・・・
調べて見つかるいずれの系統も、四~六の間ですあせる
まぁ、長尾氏も秩父氏の子孫なので、別氏族からの養子かもですが。
秩父孫次郎は後北条氏滅亡後、秩父郡阿熊村で帰農したと伝わります。


所在地:埼玉県秩父市下吉田 GPSログダウンロードページ

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