要害山城/埼玉県寄居町 | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

ココの要害山城は通称「金尾山城」と呼ばれています。
訪問日は2021年2月13日です。

要害山城【位置】

現在ココは「金尾つつじ山」ということで、公園として整備されています。
そのため、歩きやすい道などが整備されています。

要害山城【1】
①駐車場

入口の真正面には、車が沢山停められる駐車場があります。
いつもこうだったらイイのに!というくらいに広いです。
でも、ツツジのないつつじ山はまぁ、ザッとこんなもんです。
今日も張り切って貸し切りでGo!です。

要害山城【2】
①入口

駐車場の目の前に、迷いようが無いくらいに目立つ入口があります。
これを見て「どこから登ったらいいの?」なんて言う人がいたら・・・
私ならお友達やめちゃいそうですw

要害山城【3】
②城キチの入口

私は上の入口ではなく、城キチ用の入口から登りました。
場所は、さっきの所からちょっとだけ上です。
この道、城キチじゃない人にもたぶん見えると思います。

要害山城【4】
②城キチ専用道

さっきの入口からは、とても綺麗に整備された山道があります。
普段の山にもこんな道があればもっと楽に登れるのですが・・・
でも、それだとどこもかしこも人がいっぱい来ちゃいますよね?
今は密にならないよう、人の居ない山城がお勧めですし。

要害山城【5】
③尾根に連なる曲輪群

城キチ専用道からは、斜面に分け入った踏み跡がいくつもあります。
私もそっちに進みたい衝動を抑えつつ、人の道を歩み続けました。
そして、人の道を歩み切った所は笹がいっぱい茂る藪でしたクローバー
曲輪群はここから下の尾根に沿って連なっているのですが・・・
こんな状態では、苦労して分け入っても遺構を見ることが出来ませんあせる

要害山城【6】
③山頂方向

笹藪を5メートルほど掻き分けると、真人間の世界が現れます。
尾根の曲輪群を見られないなら、こっち側から登っても良かったです。
でも、山の雰囲気を味わえる「人の道」を進んだことに後悔はありません。
事前に見た資料では「人の道」で竪堀を2本見られるハズでしたが・・・
気にして無かったので、完璧に見落としましたあせる
まだまだ山城に行き足りてないという事デスね!
精進せねば・・・w

要害山城【7】
④三郭下の段

真人間の世界に入り込んで、最初の平らな場所です。
三郭の下なので四郭かと思いましたが、資料の図には何もナシ。
やっぱり、遺構なのか遺構じゃないのか、見る目がまだまだです。
精進せねば、精進せねばw

要害山城【8】
⑤三郭から見た主郭

さっきの段から階段を上がった四阿のある所が三郭です。
ここから見た主郭のこんもりが、お城らしくて恋の矢恋の矢恋の矢デス。
変な白亜の張りぼてにしなかった所も、なかなかイケています。

要害山城【9】
⑥二郭にある春日神社

三郭と並んでいる大きな曲輪が二郭です。
なんか真ん中で幅狭くなってるなぁと思いましたが・・・
1つの曲輪だと思っていましたが、間に竪堀がありましたあせる
私、もしかして調子悪い?
きっと公園化で色々いじられているからデス。
草木の茂るいつもの山中でも、やっぱり気付かない気が。
修業が足りませんね・・・

要害山城【10】
⑥二郭の虎口?

そんな私でも、城キチアンテナが反応した場所があります。
それが、二郭の東端です。
若干つつじの枝に視界を阻まれていますが、土の迷路が見えました。
辿って歩くと、カギ形になって二郭へ入って行きます。
これゼッタイに虎口だと思います(`・ω・´)p

要害山城【11】
⑦主郭からの眺め

最後に、一番高い所にある主郭です。
カメラを構えたのですが、狭いので展望台の足しか写らず・・・
しかたがないので、上から目線で見下してみました。
ちょっと気分良かったですヾ(*´∀`*)ノ



見通しが良いのと貸し切りだったのとで、空も旅しました♪


◆歴史◆

1532年、藤田重利により築かれたと伝わります。

藤田重利は、後に北条氏邦を養子に迎えた藤田康邦と考えられています。
当時は関東享禄の内乱が終結した頃です。
藤田氏は上杉憲政に味方し、西の丹党・白鳥氏を攻略しました。
同時期に築いた天神山城は、白鳥氏の白鳥神社のある山にあります。
築城当時は根古屋城でしたが、後に北条氏邦が天神山城と改名しています。

白鳥氏の他にも秩父氏らを攻め、秩父一帯を支配下に置いたとされます。
根古屋城(横瀬町)の歴史で秩父氏が登場し、誰?となりましたが・・・
どうやら犬懸長尾氏のようです。

要害山城には、金尾弥兵衛が城主として置かれました。
出自等ぜんぜんわかりませんが・・・
要害山城は、秩父街道が荒川を渡る殿蔵の渡しを抑える位置にあります。
殿蔵は、金尾弥兵衛の蔵があった所と伝わります。
天神山城もこの街道沿いにあり、秩父街道の掌握が目的だったようです。

藤田重利は1546年、河越夜戦の後に後北条氏に降伏しました。
その際に北条氏康の子・北条氏邦を養子に迎えて家督を譲りました。
藤田重利はこの時に用土康邦と改名し、本拠を明け渡しています。

城跡にある説明板では、1560年に愛宕神社が二の曲輪に創建されました。
火伏せの神と導きの神を勧請し、城の守りとして祀ったとされます。
何があったかと思えば、長尾景虎が関東に攻め込んだ年でした。
この時、藤田氏は長尾景虎に味方し、天神山城を攻め落とされています。
北条氏邦が天神山城に入城したのは、その後の1564年です。

藤田氏による秩父統一後も、北条氏邦は城を重視したという事になります。
この頃に、麓の秩父往還を取り込む形に改められたと考えられています。
その後は歴史に登場しませんが、後北条氏と運命を共にしたと思われます。


所在地:埼玉県大里郡寄居町金尾 GPSログダウンロードページ

埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示